本が届いたときには驚いた。本文だけで620ページの、活字の詰まったA5判のハードカヴァーだった。紙が良いのか、2ヶ所に挿入されたクラビア頁のせいか、アメリカの本にしてはやたら重い。計ってみると1キロを超えている。この1キロ強の荷物を、読み終わるまで、どこへ行くにも持って歩いた。面白くて暇さえあれば読まずにはいられなかったからだ。

 著者デニス・マクナリー(1949-)はデッドの Publicist つまり、対メディア対策の責任者だった。ロック・バンドのPRマンという肩書で人を見てはいけないのである。ちなみに「PR」は日本語では「宣伝」あるいは「パブリシティ」とほぼ同義だが、アメリカでは "public relations" の略であり、渉外担当の方が近い。時には人と人を結びつけるフィクサーのようなこともやる。

 著者はアマーストの University of Massachusetts でアメリカ史の博士号を得ているし、1979年にはジャック・ケルアックの伝記も出している。本を書く態度はむしろ学者のそれだ。デッドのライヴに接するのは1972年。その体験から、戦後アメリカのカウンターカルチュアの歴史を2巻で書くことを思い立つ。第1巻がケルアックの伝記。2巻めがデッドの歴史である。ケルアックの伝記をマクナリーはデッドに送り、その後、サンフランシスコに移って、『サンフランシスコ・クロニクル』紙にデッドの年越しコンサートについての記事を書く。マクナリーに会ったガルシアは、マクナリーがケルアックの伝記の著者であることを知ると、デッドの歴史を書くことを提案する。1983年、マクナリーはビル・グレアムから頼まれて、記録管理者の仕事を始める。その翌年の夏、新たなメディア担当の必要性が出てきたとき、ガルシアの推薦でマクナリーがこの仕事につくことになった。デッド公式サイトにニコラス・メリウェザー書いている UC Santa Cruz のデッド・アーカイヴ収蔵品についての記事に、1984年7月11日付でマクナリーがデッドの広報担当に就任したことをメディアに伝えるガルシアの書簡の写真がある。以後、かれはデッドのツアーにも同行し、バンド・メンバーやクルーだけでなく、かれらの家族、親族、友人たちとも深くつきあうことになる。その結婚に際してはビル・クロイツマンが花婿付添人を勤めているし、ロバート・ハンターは〈He's Gone〉の自筆歌詞を贈った。

 グレイトフル・デッドといえども人間の集団であるからには、その内部の人間関係は複雑怪奇であるし、さらに通常の集団ではありえないほど密接にからみ合っていて、しかも常に変化している。デッドと外部世界とのインターフェイスを果たすためには、そうした関係をも裁いていかねばならない。時にはメンバーの一人が直接言い難いことを他のメンバーに伝えるメッセンジャーにもさせられる。

 そうして鍛えられた皮膚感覚と、おそらくはもともと備えている観察力、そして大量のデータを処理する学者としての能力によって、これは幇間本でもなければ、内幕暴露ものでもなく、外殻をなでるだけのタレント本でもなくなっている。副題 The Inside History of the Grateful Dead とある。公式ないし公認のグレイトフル・デッドというバンドの伝記という位置付けだ。グレイトフル・デッドという集団、バンドを核とし、クルー、スタッフがその周りを固める、緊密に結びあった人びとへの愛情を底流としながらも、叙述はあくまでも冷静だ。個人ではなく、人間集団の伝記、しかも関係者のほとんどがまだ生きているということからくる制限はあるにしても、第一級の著作物にちがいない。

 構成は2本の柱から成る。メインの方は、ガルシアの両親から筆を起こし、ガルシアの遺灰がサンフランシスコ沖の太平洋に播かれるまでを時系列で追う。こちらはバンドの最初の5年間、1970年までに極端に力を入れ、70年代半ばの休止期以降はざっくり、80年代以降はすばやく駆けぬける。もともとこれはカウンターカルチュアの歴史として書かれているわけだから、1960年代に叙述が集中するのはむしろ当然だ。

 一方で、デッドがバンドとしても共同体としても最も幸せだったのは、おそらくは1970年代、1972年と77年およびそれぞれの前後の時期ではなかったか、とこれを読むと思う。80年代後半のヒット・シングルなどは、デッド現象全体から見れば、デッド共同体内部でいえば、大した意味を持たない。むしろそれによってデッドや昔からのデッド共同体は「迷惑」を蒙る。バンドはヒットによって、破滅の淵に立たされる。もう一発ヒットがあったら、バンドは崩壊していた、という記述は切実だ。

 キャリアの後半、80年代のデッド世界で起きていた最も重要なことは、1つはダン・ヒーリィによるライヴ・サウンドの革命であり、いま1つはデッドヘッド現象だった、と著者は指摘する。後者が前者を支える構図だが、それに加えてアメリカ国内での経済中心の移動も関っているらしい。この時期、東部の重厚長大産業から、カリフォルニアの宇宙航空、バイオ、娯楽、そしてデジタルへと移る。カリフォルニアだけで世界第8位の経済規模をもつ。80年代のオーディオはデジタルが生まれる一方で、アナログがピークに達した。一方でバンドの演奏は袋小路に陥っている。これが打開されるのは、皮肉にもガルシアの昏睡になる。

 メインの各章を縫うように Interlude 幕間として置かれるサブのラインでは著者の直接体験したことを中心の素材としている。当然、1980年代以降が主な対象だ。メインの表向きの客観的歴史はバンドのキャリアの前半に集中し、後半はサブの裏側の主観的エピソードを積重ねてカヴァーする。ここではデッド共同体、特に核であるバンド、そのすぐ外側を囲むクルー、スタッフの活動が具体的に描かれる。「全社会議」の様子や議題、サン・ラファエルの本部のスタッフ(ほぼ全員女性)やバンドとともに移動するクルー(ほぼ全員が男性)、そしてバンドの弁護士の性格、役割、ふるまいが、ツアーのある1日を追う形で述べられる。

 早朝、食事担当(ケイタリング)が作る卵とベーコンの匂いから始まり、深夜、ステージから降りてきたバンド・メンバーが、同じケイタリング担当から各々に注文しておいた夜食を受取って車に乗り込み、空港から次の街へと飛び立ってゆく一方で撤収が完了し、クルーが立ち去るまでが描かれる。会場への人員機材の到着、設営とテスト、バンドの到着、音出し、開場。コンサートが進行していく間のステージや楽屋の様子。その叙述に鏤められたメンバー、クルーやスタッフの間の関係は、個別の記述ではあるが全体を示唆する。この部分は内部にいた人間にしか書けないし、適度の距離をとった記述は信頼感を増す。一人称の代名詞を避け、自らのことも Scrib すなわち「書記」ないし「記録係」と呼ぶ。

 サブ・ラインの記述は序章から始まる。コンサートが始まる直前、扉が締められたが、バンドはまだステージに現れない、あの輝かしくも宙ぶらりんな瞬間から始まる。その時間を断ち切り、ショウの幕を切って落とすのは、進行を仕切るプロダクション・マネージャー、ロビー・テイラーの「客電」の一言だ。

 それが口にされるまでの短かい間に、著者はまだミュージシャンのいないステージの上を描写する。やがて、サウンド・ディレクターのダン・ヒーリィと、照明ディレクターのキャンディス・ブライトマンが、ガードマンに付き添われて、客席の中に設けられている席に向かう。ステージ上のモニタ担当エンジニア、ハリィ・ポプニックが席に着いたのを見つけて、聴衆の歓声が大きくなる。ツアー・マネージャーのジョン・マッキンタイアが楽屋でバンド・メンバーに声をかける。「みんな、時間だよ」。それぞれの儀式を切り上げて、メンバーはだいたい一列になってステージへと出てゆく。テイラーがヘッドセットにかがみこんでつぶやく。「客電」。

 それとともに会場付属の照明が消され、ショウが始まる。デッドはある時期から音響と照明はすべて自前のものを使っていた。専用の機材を揃え、専門のスタッフを抱えていた。音響システムは有名な「ウォール・オヴ・サウンド」を頂点とするが、80年代以降も当時最先端の機材を惜しみなく投入している。ライト・ショウも、アシッド・テストの頃からデッドのショウの重要な要素であったし、80年代以降は巨大なシステムを作っていたことは、ライヴ・ビデオでもよくわかる。1回のショウに注ぎこまれる電気の量は莫大だ。

 本書の最大のメリットの一つは、こうした裏方たちの存在が大きく取り上げられていることだ。グレイトフル・デッドは6人のメンバーだけがデッドだったのではなく、ロバート・ハンター、ジョン・バーロゥの二人の作詞家を含めたものだけでもなく、クルー、スタッフまで含めた集団だった。デッドのクルーは長く勤めた者が多く、リーダー格のラム・ロッド・シャートリフは音楽業界で一つのバンドのために働いた最長記録の保持者ともいわれる。報酬もバンド・メンバーと変わらず、全体会議などでの発言権も同じ。表には出ないが、かれらなくしてバンドの活動はありえなかった。

 ブレント・ミドランドの死に関連して、デッドの「仕事」は、誰にとってもおそろしくシビアな側面をもっていたことが語られる。メンバーにとってもそうだが、クルーをはじめとするスタッフについてはさらに厳しかった。たとえばデッドにはセット・リストというものが無かった。今日何をやるか、次に何をやるか、バンド・メンバーすらわからない。音響と照明のスタッフの仕事はとんでもなく難しくなる。誰もが、一晩に一度は、もうダメだ、やってられるか、やめてやると思うことがあった。それを支え、つなぎとめていたのは唯ひとつ、ガルシアへの愛情だ、と、著者はキャンディス・ブライトマンの証言を引用する。

 そしてそのガルシアは、ファンや聴衆からの有形無形の圧力と、その肩に生活がかかっている人間が多すぎる重みに圧し潰されていた。メンバーやクルーをつなぎとめるかれへの愛情は、ともすれば負担にすりかわりえる。経済的な成功もかえって重圧となる。ジャニス・ジョプリンに起きたことは、時間はかかったにしても、やはりガルシアに追いついたのだった。1992年以降、ガルシアの健康が明らかに悪いにもかかわらず、ツアーをやめることができなかったのはその現れだ。デッドがガルシアを酷使し、血を吸っていたというジョン・カーンの非難はまったく的外れでもない。

 あるいはむしろ、ガルシアが30年保ったことの方が驚異なのかもしれない。ガルシアは読書家だったし、映画は「狂」のつくほどのマニアだったし、音楽はおそろしく幅広く聴いていた。絵も描いた。そうした活動の積重ねが防壁として働いた。ジャニスやミドランドにはそうしたものが無かった。

 デッドの共同体はさらに大きい。デッドヘッドをも含むからだ。その中には上院議員やノーベル物理学賞受賞者もいる。デッドを聴きながら操縦していた空軍のパイロットもいる。1994年、ニューヨークの舞台裏にいたデッドヘッドの上院議員のところへホワイトハウスから電話がかかってくるところは抱腹絶倒だ。この上院議員 Patrick Leahy は民主党で、上院最長老の一人。ガルシアの同世代。Wikipedia の記事によれば、議員としてのオフィスにもデッドのテープ・コレクションを備えている。さらには本人はデッドヘッドではないが、ジョセフ・キャンベルがコンサートに来て、感心したという話もある。

 著者の視野はさらに広い。デッドのビジネス面での関係も抜目なく押えている。ただし、ビジネスの手法よりは人物とそれぞれとの関係に焦点をあてる。プロモーターとレコード会社が主な対象だ。この方面で圧倒的に興味深いのはビル・グレアムである。

 デッドにとって良くも悪しくも最も重要なプロモーターはグレアムだった。著者によれば、グレアムはデッドの音楽がめざすところをきちんと評価し、尊敬もしていた。そして、デッドと本当に親密な関係になりたいと願っていた。デッド・ファミリーの一員になりたかった。だからデッドをあらゆる方法で援助している。ライヴのブッキングだけでなく、金を貸してもいるし、1976年の「復帰」にも大きく貢献している。一方で、デッドにはグレアムの性格、イベントを自分の「作品」「所有物」と考え、偏執狂的なまでに完璧を求める性格がどうしても容認できなかった。だから、グレアムに頼り、利用し利用されつつも、グレアムを全面的に受け入れることはついにしなかった。

 一方、興行主としてのグレアムは、ショウを救う、守ることについては尊敬に値する。1973年ロング・アイランドのナッソウ・コリシアムでのデッドのショウの始まる前、数千人の若者たちが入口に殺到したとき、グレアムは拡声器を掴んで単身その前に立ちはだかった。ある少年が「カネの亡者!」とあざけると、グレアムは20ドル札をとりだして相手の足元に投げつけてから、そいつのチケットをビリビリに引き裂いた。群衆はしばしの間静かになっただけだったが、ひとつ対応を間違えれば、1979年12月3日、シンシナティのザ・フーのコンサートでサウンド・チェックを本番と思いこんだ群衆がなだれこみ、11人が圧死するのに匹敵するような大事故になっていたところだ。この時コンサートのプロモーターはバンドのロード・マネージャーと夕食を食べに行って不在だった。

 グレアムは近寄りたくは金輪際ない人間だが、傍で見ている分にはたいへんに面白い。自伝は読み物としては格好だろうが、書いてあることを鵜呑みにするわけにはいかないのはもちろんだ。ぜひとも誰か、きちんとした伝記を書くべきだが、それにはデッドのメンバーも含めて、もう少し関係者が死ななければなるまい。

 興味深いという点ではもう一人、アウズリィ・スタンリィ、通称ベア(熊)がいる。かれはデッドのサウンド・エンジニアを勤めてもいて、内部の一人ではあるが、いささか異なった位置にいる。一般にはアシッド・テストをはじめとするLSDの供給者として知られる。生まれる時代がほんのわずかずれていれば、一流の科学者として名を成していたのではないか。ドクロに稲妻のロゴは、ウッドストックの楽屋でどのバンドも似たようなツール・ケースを使っていることから区別のためにかれが思いついた。このロゴの稲妻に先端が13個ある、というのは本書で初めて知る。星条旗の星、つまり13州と同じ。この人は著者にとっても捉えがたいのか、あるいはまだ書けない部分が多々あるのか、そのイメージは必ずしも明瞭でないが、それだけにますます興味を惹かれる。

 グレイトフル・デッドが残したものは、時間が経つにつれて重要性を増しているようだ。1本のコンサートを丸ごと録音した音源がそのまま作品群として繰り返し鑑賞される最初の、そして現在のところ質量ともに抜きんでて最大の実例だ。録音は音楽の姿をまったく変えてしまったが、その技術の適応の実例としても、ベストのひとつである。そこはほとんど無限の豊饒の宇宙である。その一方で、やはり固有の世界観を土台とし、様々な暗黙のさだめがある。その方言やスラング、ジャーゴンを理解し、その音楽が生まれてきた背景を把握することは、より深く聴きとり、それぞれにより豊かに体験することを可能にする。

 今年結成50周年を迎えて、30年の活動を1年1本ずつ選んだ未発表の30本のコンサート録音でカヴァーするボックス・セット《30 TRIPS AROUND THE SUN》が秋にリリースされる。あるいはそれを待たずとも、ネット上で公開されている聴衆録音で同様なことは可能だ。すでに公式リリースされている録音だけで自分なりの「30年セット」を組みたてることもできる。マクナリーによるこの公式伝記をそうした航海の座右に置いて、豊饒の海に棲むものや起きることをより精密に聴きとりたいと思う。(ゆ)