グレイトフル・デッドの結成50周年記念ボックスセット 30 TRIPS AROUND THE SUN の出荷が始まったよ、という通知が来てほどなく現物がやって来た。発送したらトラッキング・ナンバーも知らせるということだったが、通知もなく、いきなりモノが DHL でやってきた。輸入消費税をとられた。
この本は英語書籍のふつうのハードカヴァーの大きい方のサイズ。たぶん人工とおもうが、革装のソフトカヴァーというべきか。糊付け製本ではなく、糸綴じで、背がオープンになっており、ぺたんと開くことができる。全288ページ。
半分の151ページがニコラス・メリウェザー Nicholas Meriwether による "Shadow Boxing the Apocalypse: An Alternate History of the Grateful Dead。
反対側が表紙になって135ページの "Dead Heads Tell Their Tales"。
2つの間にボックスセット全体のクレジットと、バンドの歴代全メンバーの名前と担当がある。
つまり、2つの本が背中合わせになっている。なので、ぺたんと開けるようになっているのだろう。これはなかなか良い製本で、たいへん読みやすい。
印刷やレイアウトはしっかりしていて、写真や図版も鮮明。これは PDF ではちょっとかなわない。あちらは拡大するとボケてしまう。
PDF 版には、これに加えて、デヴィッド・レミュー David Lemieux による "Show Notes"と、ジェス・ジャーノゥ Jesse Jarnow による "Song Chronology"がある。
"Show Notes" はCD版では個々のショウのCDパッケージに印刷されている。30本の録音のそれぞれについて、リイシュー・プロデューサーのレミューが簡潔に解説する。それぞれの年でその録音を選んだ経緯を述べてから、聴き所をあげる。デッドといえども当然調子の良し悪しはあるわけで、1980年代前半などは選ぶのに苦労しているし、もちろん1975年は大問題だ。この年4回だけおこなわれたコンサートのうち、1回は30分だけ、1回はテープが無く、1回は《ONE FROM THE VAULT》として既に出ている。残りの1回が今回収録されたわけだが、これがリリースの要望も多かった9月28日、ゴールデンゲイト・ブリッジ公園でのフリー・コンサートだ。
各年での収録コンサートの選択にあたっては公式に未発表のもののうち、その年を象徴し、ハイライトとなるようなものを選んだということだが、それに加えて、なるべく珍しい選曲、組合せを提供しようともしている。
"Song Chronology" は、スクロール、巻紙に印刷されている。PDF版ではタイトルの下に、演奏された時期とひとことがある。巻紙ではそれぞれが、どのショウで演奏されているかを色分けした表になっている。順番は時系列だ。〈I Know You Rider〉(Trad.)に始まり、〈Childhood's End〉(Lesh)に終る198曲。オリジナルは全て入っているが、カヴァーは一部(19曲)で、ディランやチャック・ベリーは入っていない。
メリウェザーは University of California Santa Cruz の図書館に置かれた Grateful Dead Archives の管理人を勤める。このエッセイの長さは70,000語超。邦訳すれば400字詰原稿用紙換算で700枚以上。300ページの文庫なら優に2冊分。グレイトフル・デッドの歴史を書いた本の中で最も短かいものになり、ライナー・ノートとしてはおそらく史上最長だ。
1965年から1年毎に1章として、デッドの歴史を書いてゆく。ボックスセットに選ばれている毎年のコンサートのコンテクストを提供することが主眼だ。まずその年を総括し、そして大きな出来事をほぼ時系列で追う。ライヴ本数、レパートリィの曲数、新曲の数などの数字も押える。主なツアーの時期と行き先、リリースされた録音、そしてショウや録音へのメディアの反応を述べる。その際、上記アーカイヴからの資料が、ヴィジュアル、テクスト双方からふんだんに引用される。'60年代、'70年代、'80年代、'90年代について各々イントロがあり、さらに全体の序文と結語がつく。この全体の序文と結語、それにショウについての注記が公式サイトに公開されているが、これはダウンロードしたものよりも拡大されている。
とりわけ目新しい事実が披露されているわけではないが、従来あまりなかった角度からの分析は新鮮だ。レパートリィの数など具体的に上げられると、あらためて驚かされもする。例えば1977年にデッドが演奏したレパートリィは81曲。これだけでも驚異的だが、1980年代後半には数字はこの倍になる。
1970年代初めにデッドは精力的に大学をツアーしているが、これによってデッドの音楽に出逢ってファンになった学生たちが後にデッドヘッドの中核を形成するという指摘は目鱗だった。デッドのメンバーやクルーで大学を出ているのはレッシュくらいだが、デッドの音楽と歌詞に学生たちは夢中になったのだ。
これで思い出すのは1970年代後半、ある東部の大学でのベニー・グッドマンのコンサートでの話だ。体育館を改装した多目的ホールの会場にやってきたグッドマンは中に3歩入って内部を見渡すと、床に唾を吐いて言った。
「くそったれ、またファッキン体育館か」
そして回れ右して出てゆき、客電が落とされる5分前までもどってこなかった。ちなみにまだシットとかファッキンとかまともに印刷できなかった頃で、グッドマンのような大物の口からこういう言葉が出たことに聞いた方は驚いている。この時の演奏はなかなかご機嫌なものではあるが、目立つのは女性ヴォーカルの方で、グッドマンの存在感はあまりない。
むろん、デッドとグッドマンでは、天の時も地の利もまるで違うから、同列には論じられないが、2つの世代の交錯がぼくには象徴的に見える。
メリウェザーが繰り返して描くのは、デッドの音楽がうみだす共同体生成とヒーリングの効果である。内外からかかる圧力やそこから生まれる軋轢、様々な障碍も音楽が帳消しにし、乗り越えることを可能にしてゆくその作用だ。
最も印象的なシーンのひとつは1995年3月オークランドのスペクトラムでの3日連続公演の3日め、ファースト・セットの最後に突如、録音から20年ぶりに〈Unbroken Chain〉が初めてステージで演奏されたところだ。デッドヘッドの unofficial anthem になっていたこの曲がついに目の前で演奏されるのを見た聴衆の歓声は演奏を掻き消すほどだった。その瞬間がデッド体験最高のハイライトになったファンも多かった。
ちなみに、これはレシュの息子のリクエストによるそうだ。
そして7月9日の最後のコンサート。ぼろぼろになりながら、なお持てる力をすべて絞り出して〈So Many Roads〉をうたうガルシアの姿。スピリチュアルな響きさえ湛えたその姿は聴衆だけでなく、バンド仲間をも動かし、レシュはガルシアがアンコールとした〈Black Muddy River〉の絶望と諦観の余韻を〈Box of Rain〉の希望と決意へ拾いあげる。この一節はメリウェザーの力業=トゥル・ド・フォースだ。
グレイトフル・デッドとしてのこの最後の演奏の録音は、ボックスの蓋に収められた7インチ・シングルのB面にカットされている。A面に入っているのは、1965年11月、The Emergency Crew として録音した最初の録音のうちの〈Caution〉、その時の録音したもののうち唯一のオリジナル曲だ。
メリウェザーが提供するパースペクティヴに映しだされるデッドの歩みは、こういう現象が30年にわたって続いたことは奇蹟以外のなにものでもないと思えてくる。そしてその余沢をぼくらも受けているわけで、これからも受ける人は増えこそすれ、減りはしないのではないか。
"Dead Heads Tell Their Tales" は50周年を記念して募集したデッドヘッドからの手紙を集める。初めてのライヴの体験、デッドヘッド同士の交歓、自分にとってデッドとは何か、ささやかなエピソードから深淵なコメントまで、ほんのひと言から、1,000語(四百字詰め原稿用紙換算約10枚)以上の長文まで、語り口も内容も実に様々だ。
ぼくとしては、この部分を最も興味ぶかく読んだ。デッドヘッドとその世界がどういうものか。ひいてはデッドが生み出した世界がアメリカにおいてどういう位置にあり、いかなる役割を担ってきたか。ごく断片的で表層的ではあれ、初めて現実感と説得力をもって伝わってきたからだ。
書き手もまことに多種多様。The Warlocks 時代からのファンもいれば、ガルシア死後の若いファンもいる。ヨーロッパから遠く憧れつづけた人たち、同時代に生き、しかもスタジオ録音は全部聞き込んでいながらついに一度もライヴを体験しなかったアメリカ人もいる。ブレア・ジャクソンやビル・ウォルトンなどのビッグ・ネーム・ファンや、スタンリー・マウスやハーブ・グリーンなど関係したアーティスト、あるいはツアーのシェフを勤めたシェズ・レイ・セウェル Chez Ray Sewell、ビル・クロイツマンの息子ジャスティンなども含む総勢180人が口を揃えて言うのは「デッドに出逢って人生は良い方に変った」ということ、そしてその変化をもたらしてくれたことへの感謝の気持ちである。
もちろん、デッドに出逢ったことで悪い方へ人生が変化した人もいたはずだ。ここは祝いの場であるからそういう声は出てこない。その点はどこか別のところでバランスをとる必要はあるだろう。
とはいうものの、ここに溢れるポジティヴなエネルギーと心からの感謝の想いをくりかえし浴びていると、ひとまずそういうマイナス面は忘れて、この歓喜にこちらの身もゆだねたくなってくる。デッドはオアシスなのだ。せちがらい、クソッタレなこの世界で、まことに貴重なプラス・エネルギーを浴び、充電できる場なのだ。
文章だけでなく、ファンたちが贈った様々なヴィジュアル・アートがページを飾る。肖像画やパッチワークや彫刻、バンバーステッカー、さらにはイラク戦争に従軍した兵士がトルコであつらえた骸骨と薔薇の画を編みこんだ絨緞。そこにあふれるのは、ミュージシャンたちの姿とならんで髑髏と骸骨すなわち死の象徴だ。
Grateful Dead と名乗った瞬間、かれらは死の象徴を歓びのシンボルへと換える道へ踏み出した。
死の象徴があふれるデッドのコンサートでは奇蹟が起きる。その実例もまた数多くここには記録されている。
駐車場に "I need a miracle." と書いたプラカードを持った青年がすわっていた。そこへ薮から棒にビル・グレアムが自転車に乗ってあらわれ、青年の前に乗りつけるとプラカードをとり、チケットを渡して、あっという間に消えてしまった。チケットを渡された青年はただただ茫然としていた。
幼ない頃性的虐待を繰り返し受け、収容施設からも追いだされた末、デッドヘッドのファミリーに出会って救われた少女。事故で数ヶ月意識不明だったあげく、デッドの録音を聞かせられて意識を回復し、ついには全快した男性。コンサートの警備員は途中で演奏がやみ、聴衆が静かに別れて救急車を通し、急に産気づいた妊婦を乗せて走り去り、また聴衆が静かにもとにもどって演奏が始まる一部始終を目撃した。臨時のパシリとなってバンドのための買出しをした青年は、交通渋滞にまきこまれ、頼まれて買ったシンバルを乗せていたため、パニックに陥って路肩を爆走してハイウェイ・パトロールに捕まるが、事情を知った警官は会場までパトカーで先導してくれる。初めてのデッドのショウに間違ったチケットを持ってきたことに入口で気がついてあわてる女性に、後ろの中年男性が自分のチケットを譲って悠然と立ち去る。
Dennis McNally によれば、90年代の絶頂期、デッドが発行した招待状=無料入場券は年間60万ドル相当に達していた。
それだけではない。デッドはプロがやってはいけないとされることを残らずやっていた。コンサートの契約書には、[最短]演奏時間が書きこまれていた。ラミネートと呼ばれるバックステージパスの斬新でユニークなデザインと製作に毎回莫大な金と手間をかけていた。ライヴ・サウンドの改善のために、カネに糸目をつけなかった。レコードを出しても、そこに収録した曲を直後のツアーで演奏することは避けた。聴衆がコンサートを録音し、録音したテープを交換することを認め、後には奨励した。等等等。それ故に誰にも真似のできない超大成功をおさめたわけだ。そして、この「成功」にカネの割合は小さい。
なぜ、デッドはそういうことをしたか。それはたぶん、かれらの資質だけでなく、あの1960年代サンフランシスコという特異な時空があってこそ生まれたものでもあるだろう。デッドは60年代にできたその土台に最後まで忠実だったこともこの本を読むとはっきりわかる。80年代のレーガンの時代にも、90年代にも、デッドのコンサートは60年代エトスのオアシスであり、そこへ行けば Good Old Sixties の空気を吸ってヒッピーに変身することができた。
一方でそれにはまた、とんでもないエネルギーと不断の努力が必要でもある。「努力」というのはデッドには似合わない気もするし、日本語ネイティヴの眼からはいかにもノンシャランに見えるかもしれない。しかし、眉間に皺を寄せ、日の丸を染めぬいた鉢巻を締め、血と涙と汗を流し、歯を食いしばっておこなう努力だけが努力の姿ではない。日本流のものとは違うが努力以外のなにものでもないことを、デッドは30年間続けた。ともすれば、こんなに努力しているボクちゃんエラいという自己陶酔に陥りがちなスポ根的努力とは無縁な、しかし誠実さにおいてはおそらく遙かに真剣な努力を、デッドは重ねていた。
ステージの上で毎晩ああいうことをやるのはどんな感じかとファンに訊ねられたガルシアはふふふと笑ってこう答える。
「そりゃな、一輪車を片足だけでこいで、砂が流れ落ちてくる砂丘を登ろうとしているようなもんだよ」
そうして努力しても、常に報われるとは限らない。むしろ、シジュフォスと同じく、虚しく終ることも多かったはずだ。しかし、成功した時のデッドのショウはまさしく奇蹟としか思えない。その奇蹟を捉えた記録を年1本ずつ30本集めたのがこのボックスということになる。(ゆ)
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