ようやくバンド名の由来が明かされた。「菜花」つまり菜の花だったのね。「茗荷」や「大根」にならなくてちょっと残念ではある。
音楽のライヴにとってどこでやるかはとても重要だ。場合によってはそれだけでライヴの成功不成功も決まってしまう。ロバハウスは生のアコースティック楽器にとっては最高のハコだ。フィドル、コンサティーナ、フルート、ホィッスル、ハープがなんの増幅も無しに、バランスのとれた音量で、それぞれがくっきりと、しかもハモって聞えるべきところはきちんとハーモニーとして聞える。さらにギターやアコーディオンやマンドリンやらが加わると、それらもそれぞれにはっきりと聞える。それだけではない、笹倉さんがうたったときには、その声がまた明瞭に、ギターとのバランスのとれたヴォリュームで聞える。これまた増幅は一切ない。
おそらくは正面の床から2階にあたる天井まで大きくゆったりと空間をとり、ゆるく囲むように立ち上がっている漆喰(?)の壁がポイントなのだろう。梅田さんによると、その壁にそって、ミュージシャンの後ろに並べられた古い形の弦楽器の弦も共鳴していたらしい。
増幅なしの生音はとても気持ちがいい。演奏する方も楽らしい。フルートの須貝さんはまだマイクを使って演奏するのに馴れないという。渋谷タワーレコードでのインストアの時よりもはるかに堂々としている。
あのインストアから何度もライヴをしたのかと訊ねてみたら、2、3回、それもイベントの一環だったとの答え。それにしてはインストアの時よりもまた一段と成長している。そういう時期なのかもしれないが、なんとも頼もしい。
3人の息の合い方が一段と緊密になっている。それぞれ別のメロディーを奏でるような時でも、呼吸がぴたりと合っている。音楽のレベルが一つ上がっている。
それぞれの調子も良い。中藤さんは3人の中では一番安定していて、個々のライヴでの出来不出来の波がほとんど無い。数年単位の大きな周期ではあるのだろうが、その点から見ても急激にではないが、今のところずっと確実に上昇しているようだ。
梅田さんも調子が悪いということはこれまで見たことはないが、とりわけ良い時がある。生梅のときがそうだったし、この日はこれまでで最高だ。音に張りがある。それには上にも書いた会場の特性によってハープの音がとてもよく聴こえたことも与っているかもしれない。弾いていて気持ちがよいだろう。周りの楽器たちも一緒にうたってくれている感じもあったか。
そして須貝さんが良い。マイクが無いのはいわばホーム・グラウンドで演っているようなものだろうか。のびのびと自信をもって吹いている。いつでもこういう場所でできるわけではないから、マイクの使用にも慣れなくてはいけないだろうが、こういう演奏は土台になる。意識しないですむマイクを使う手もある。小さなマイクを楽器につけたり、マイケル・フラトリーが使っていた口元につけるやつはどうだろう。
加えて、これは自分たちのバンド、自分たちのサウンドということが身についていた。借り着ではなく、自分たちで糸をつむぎ、布を織り、それを仕立てた服を着て演じているという自覚。あるいはそうして作った服がようやくカラダにぴたりと合ってきた感覚。3人がたまたま集まっただけでなく、1個の有機体として活動しはじめたと納得している。こうなると録音で聴きなれた曲がまったく新鮮な音楽としてたちあがってくる。ライヴを聴く醍醐味だ。
バンドのプロデューサーでもあるトシバウロンはじめ、中村大史、長尾晃司というおなじみのメンバーのサポートも例によってみごとなものだったし、また録音のエンジニアでもある笹倉慎介さんも途中で楽しいおしゃべりといいうたを聴かせてくれた。何も持たずに出る旅は死出の旅路という笹倉さんのうたが身に沁みるのも年のせいか。
このところとにかく寒くて、ロバハウスは靴を脱いであがるので、足許がすうすうする。それでも腹も下らずにすんだのは、音楽のすばらしさとともに、吉祥寺のひつじ座が出してくれた暖かい飲み物と軽食のおかげであろう。チャイも野菜の煮込みもパンもそれは旨かった。
ロバハウスに向かうときには、モノレールの窓の向こうに沈んだばかりの太陽の残光に結構大きな富士がくっきりと浮んで迎えてくれた。帰りには、みごとに晴れわたった夜空に、月とオリオンとシリウスが送ってくれた。今年も良い音楽にたくさん出逢えた。そのライヴもあと1本。(ゆ)
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