「ごりら」と読め、と渡辺さんがのたもうていた。動物の「ゴリラ」ではないそうだ。

 バンドというのは不思議なものだ。経済的理由ではなく、音楽的要因、つまりこんな音楽をやりたい、こいつと一緒にやってみたいという動機から集まったにしても、人間の集団である以上、どこかで制限を受けるところが出てくる。その制限は必ずしもマイナスではなく、それによって思いもかけない演奏が出てきたり、できないと思っていたことができてしまったりする。しかし制限はやはり制限なので、続けてゆくと制限からはみ出す部分や嗜好が溜まってくるのだろう。それを発散する場が欲しくなる。ジェリィ・ガルシアやボブ・ウィアがグレイトフル・デッドではないバンド演奏を続けたのもそのせいだ。

 渡辺庸介さんと清野美土さんは別のバンドで見ていたが、おそらくはこちらがより「地」に近い姿なのだなと思われた。ドレクスキップにしてもハモニカクリームズにしても、その「地」から半歩ないし一歩踏み出したところでやっているのが演る方も聴く方も面白いのだ。ハモニカクリームズやドレクスキップの他のメンバーにしても、その点は同じだ。

 もう一つ、これが臨時の組み合わせで、恒久的なバンドではないところから生まれる面白さがある。どうなるのか、自分たちでもわからない。そこが面白い。あたしにしてからも、このメンバーを見て、どういう音楽になるのか、まるで見当がつかなかったから、これは行くしかないと思ったわけだが、演る方がこのメンツでやってみようと思ったのは、どうなるかわからなかったからではないか。

 実際の演奏にはかなり入念なアレンジとリハーサルを重ねた様子もあったが、一方で今、この場で、新たに立ち上がってくる新鮮さ、ホィットニー・バリエットのいう「驚き」があふれていた。

 あんまり楽しいのでまたやります、と渡辺さんが言っていたのには双手を挙げて賛成だが、しかし、どうかあまり頻繁にではなく、また定期的にでもなく、いわばゲリラ的に、たまたま全員の都合がついたので急遽やりますくらいのノリでお願いしたい。あるいはまた一人二人違う組み合わせで聴いてもみたい。録音を出すのなら、ライヴをまんま録ったもの、デッドのアーカイヴのようなものを出していただきたい。そう、これは今のわが国で可能な、限りなくデッドに近い音楽だと思う。音楽の姿がではなく、成立ちがだ。

 カタチとしてはジャズとしか言いようがない。それぞれに異なる出自、志向を持つミュージシャンが一つの土俵の上で一緒にできる方法論としてのジャズだ。ソロをとるメロディ楽器がブルースハープとアコーディオンというのもジャズ的だ。パーカッションがリーダーとなったジャズのセッションというけしき。あたしのごく狭い体験のなかでは、やはりジャック・ディジョネットのスペシャル・エディションが一番近い。

 それぞれに作った曲を選んでやってみようというコンセプトらしく、清野さんがハモニカクリームズでやっている曲しか知らなかったが、それらが別の曲に変身している様はそれはそれは楽しい。どちらが上ではなくて、どちらも楽しい。その上で、ハモニカクリームズのパーカッションとして渡辺さんが入ったところを見て聴いてみたい。

 他のお二人はまったくの初見参で、これまた「驚き」に満ちていて楽しい。こういう音楽はそれぞれが一騎当千でないと面白くならないが、昨日のを見るかぎり、それぞれが一騎当万くらいだ。

 唯一不満、というか、後になってこれだったらこんなのも聴きたかったと思ったのはスローな演奏。前半で1曲、不定形な演奏をマクラにしたカバー曲があったが、昨日はおたがい煽りあうので、テンポもテンションも上がりっぱなしで疾走していた。それはそれで最高だったが、1曲ぐらい、思いきりテンポをおとし、音数を減らし、抑えに抑えたどブルーズという趣の演奏があってもよかった。

 それにしても渡辺さんは大きくなった。パーカッショニスト(そうそう、トシバウロンが宣伝していたミュートのできるタンバリンも面白かった)としても、バンド・リーダーとしても、これならたしかに一つのバンドだけではもう収まるはずもない。これからは東京をベースにされるそうで、ここも一つの渦の中心になりそうだ。とりあえず次は5月下旬の佐藤芳明、中村大史、優河との「コエトオト」だ。これまたどういうことになるのか、見当がつかない。楽しみだ。(ゆ)

ごり達(ごりら)
渡辺庸介: percussion
清野美土: blues harp
佐藤芳明: accordion
岩見継吾: contrabass