星川京児さんの告別式は無宗教の簡素なものだった。焼香はもちろん献花もない。正面に遺影と一升瓶などが飾られた祭壇の前に、頭を先にして蓋の開けられたままの棺が置かれている。その周囲と、正面の壁沿いに花が飾られている。

 まず司会者の合図で全員で黙祷。献奏として星川さんが2004年南インドの音楽寺を夫人と訪問された際にデンスケで録音した音楽の一部が流される。昨夜の通夜では生演奏がされた由。友人代表として皆川厚一氏と早稲田の同窓代表で宮原氏が思い出を話される。早稲田に入学した時に自己紹介で座れば一升飲むと豪語していたそうな。再び献奏として、イラン北部のトルコ系住民によるアーシクの日本でのスタジオ録音が流される中、親族より順番に棺の両脇に近づき、それぞれにお祈りをする。すませた者は脇の部屋で待つ。ここには上記南インドの音楽寺や海岸での写真が展示されている。一度会場が閉じられ、再び開けられて、親族から入ってお花を棺に入れる。入れてからまた脇の部屋に下がるが、その通路入口に康江夫人が立って参会者に挨拶されていた。棺が花で埋まるまでの間、紋付袴の正装で一噌幸弘氏が別れの笛を吹きつづけられた。棺が花で埋まると、親族の手で棺に蓋が置かれる。出棺を見送って帰途についた。香典は小児がん専門治療施設チャイルドケモハウスに寄附されるという。

 星川さんに初めて会ったのが、どこか、まるで記憶がない。いつかはだいたい覚えている。当時高尾にいた通販レコード・ショップ「田圃鈴」の船津さんが、その扱う音楽を対象とした雑誌『包』(「パオ」と読む)を立ち上げたのだが、第2号から編集長はこの人と紹介されたときだったはずだ。1980年代半ばのことだ。

 『包』創刊号は北米のシンガー・ソング・ライター、フォーク・ミュージシャンとヨーロッパの伝統音楽を対象としていて、あたしも頼まれるままに嬉々として執筆者として参加した。2号めからは星川さんが主な守備範囲とする世界各地のルーツ・ミュージックを対象として、シンガー・ソング・ライター方面は薄くなったのだが、当時はまだ「ブリティッシュ・トラッド」と呼ばれていたアイルランド、ブリテンの伝統音楽や、ヨーロッパの伝統音楽は引き続きとりあげるということで喜んだのも束の間、星川さんはそう甘くはない。それだけを書いているわけにはいかなかった。

 その頃、赤坂、というより当時まだ竜土町にあった防衛庁の裏あたりにあたる得体のしれないマンションの一室に、星川さんはオフィス「包」の看板を掲げていた。雑誌とは無関係に、それよりずっと前からやっているとのことだった。誘われて茂木健とここを訪ね、当時まだ東京では入手の難しかった黒糖焼酎「朝日」の一升瓶を空にしながら渡されたのが、タジキスタンの音楽のメロディア盤だった。むろんLPである。

 ソ連はその構成各共和国の独自文化推進を政策として掲げていて、国営レーベルのメロディアでも各共和国別に伝統音楽の録音を出していた。タジキスタンはその1枚で、星川編集長はこれを紹介する原稿を書けとおっしゃる。強制も脅迫もしないが、しかし、その要請は断われるものではない。初めて飲む黒糖焼酎の酔いも手伝っていただろう。ほいほいと引き受けてしまった。それが転機だった。

 ぼくがそれまで頑なに守っていた、ブリテン、アイルランドとヨーロッパの一部、ブルターニュ、フランス北部、ハンガリーの伝統音楽という殻を、星川さんは一発で砕いてしまった。いやそれは結局泡のように頼りなくはかないもので、星川さんがやわらかくつつくとぱっと消えてしまった、というべきだろう。

 中央アジア、インド亜大陸、ペルシャ、中東、マグレブ。あるいはインドネシア、ヴェトナム。そして日本。星川さんには導いたつもりなどないだろう。あたしが勝手にかれの落とすもの、指すものを拾っていっただけだ。世界中どこでも音楽は豊かにあることを、その気になればいくらでも聴くことができることを、星川さんはその行動によって示してくれた。具体的にはにこにこしながら酒を飲んでは、ときどきぽろっとミュージシャンや地域や楽器やスタイルなどをその口からこぼす。その断片が後で、宿酔からようやく覚めたころになにかの拍子に頭にぽっかりと浮かんでくる。それを追いかけるわけだ。

 これを要するに、星川さんはあたしにとっては松平維秋さんに続く音楽での二人目の師匠だった。今あたしが聴いている音楽の9割はこの2人によって決定されている。

 『包』はおもしろかった。書くのも読むのも面白かった。自分の書いたもの以外は表紙から裏表紙まで毎号舐めるように読んだ。売行も悪くなかったはずだ。創刊間もない頃、その頃ある出版社の営業で都内近郊の大型書店を担当していたあたしは、そのいくつかに個人的に頼みこんで販売してもらった。直販取引の手筈だけつけたのだ。後できくと、毎回ほとんど完売だった。『包』は二度潰れて、二度目は立ち上がれなかったが、雑誌の売行が悪かったせいではない。どちらも発行母体が別の理由で潰れた、あるいは潰れかけたせいだ。

 書くほうではずいぶん勝手をさせてもらった。アイルランドやブリテンの伝統音楽がまだ「爆発」する前で、他にそういう音楽を紹介できる媒体は無かったせいもある。この手の音楽を本当はどう思っていたか、星川さんに確認した覚えはない。ペンタングルは好きだったから、まったく相手にしないわけではなかっただろう。しかし、星川さんはそういう確認の必要性を感じさせない人だった。どんなものでも受け入れてくれる、大海のような人だった。

 勝手をさせてもらったということではキング・レコードでやったユーロ・トラッド・コレクションが一番だ。あれの裏の仕掛人は星川さんで、あれをきっかけに当時キングにいた野崎さんともつながるわけだから、こんにちのわが国アイリッシュ・ミュージックの演奏者、リスナーにとっても星川さんは恩人である。

 告別式の挨拶で康江夫人が、京児さんは怒ったことがなかった、と言われた。宮原氏の話で、他人の悪口を言うときでも聞いている方が不快にならなかったと言われた。星川さんはとにかく器が大きかった。中村とうよう氏には嫌われていると言って酒の肴にしたこともあるが、これも中村氏の「片想い」だったと思う。星川さんほど嫉妬から縁遠い人をあたしは知らない。いや内心では嫉妬に身を焦がしていたのかもしれないが、表に出たのは少なくともあたしの狭いつきあいの中では無かった。

 最後に会ったのは、2012年9月、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルのトッパンホールでのライヴの時だった。茂木さんもきていて、がん仲間がこうして会えることを喜びあった。

 昨年の今ごろ、久しぶりにメールのやりとりをして、近いうちに会いましょう、ということになった。その直後から急に暑くなったり、あれこれ忙しくなったり、で気がつくと寒さに震える季節になっていた。手術を受けてからは寒さには極端に弱い。星川さんも厳しいだろう。暖かくなったら連絡しよう。そう思いながら、ぐずぐずしているうちに今日を迎えてしまった。痛恨。申し訳なくて、康江夫人の前に立っても何も申しあげられなかった。

 死去の知らせを聞いてから、オレゴンの録音を聴いている。むろんコリン・ウォルコット在世中のものだ。星川さんが一番好きと公言されていたバンドだ。肉体から解放されて、星川さんはさらに気ままに音楽と酒を求めてうろついているだろう。ウォルコットとも酒を飲んでいるかもしれない。

 宮原氏が紹介された、人間の文明は音楽から始まった、という星川説にあたしも双手をあげて同意する。人間を人間たらしめているのは音楽だけだ。人間以外の生物もコトバを話すし、戦争もする。しかし音楽をやるのは人間だけだ。そう、これもまた星川さんが落としたものだ。

 さらば、師匠。元気に行きたまえ。いつか、またどこかで、めぐりあわん。(ゆ)