世事にうとくなって、スウォブリックの死去さえ、ひと月以上経ってから知る有様だが、知った以上はひとこと書かないわけにはいかない。

 スウォブリックを初めて聴いたのは、いわゆるケルト系ダンス・チューン、より正確にはアイリッシュのダンス・チューンを初めて聴いたのと同時だった。すなわち、かれが演奏するアイリッシュのダンス・チューンを聴いたのだった。

 バンドはフェアポート・コンヴェンション。録音は1977年に出た《LIVE AT L.A. TROUBADOUR》。いわゆる「フルハウス」フェアポートがその絶頂期にアメリカはロサンゼルスの有名なライヴハウスに出たときのライヴ。この録音は権利関係の問題からか、ついにCDになっていない。

 数年してロサンゼルスに滞在していた時、このライヴハウスに行ってみた。手前がバー、その奥がホールという普通の構造。ホールはかなり細長く、入って右手、長い方の辺に低いステージがある。客席は三階ぶんくらいまであったと記憶する。当時はポスト・パンクの頃で、その時出ていたバンドも1曲2分くらいの、メロディの起伏のほとんどない曲を次々にやっていた。客で来ているらしい若い娘が2人、ステージの前に出て、体をまっすぐに立て、両腕をぴたりと胴につけて細かく跳ねながら、それに合わせて首を左右に高速で振るという、ダンスともいえない動作を曲が演奏されている間ずっとしていた。2人がまったく同じ動作をステージの前、左右に別れてやっているのは、ロボットに見えた。

 フェアポートの《トゥルバドール》を聴いたのはもちろん渋谷のブラックホークで、冒頭のマタックスの「カン、カン」に続いてスウォブリックのファズ・フィドルが弾きだした途端、体に電流が走った。この「カン、カン」からして、アイルランドのケイリ・バンドへのオマージュであり、パロディであると知るのは、遙か後年、そのケイリ・バンドの録音を聴いた時だ。

 ここでフェアポートがやっているのは踊るための音楽ではなくて、聴かせる、聴くための音楽で、松平さんが「一瞬も眼を離せないボクシングの試合」に譬えた、スウォブリック、トンプソン、マタックスのせめぎ合いは、フェアポート自身、空前にして絶後である。それが最高潮に逹するのはB面の〈Mason's Apron〉で、ここでの印象があまりに強いので、この曲は誰のものを聴いてものったりくたりに聞える。

 スウォブリックの最大の功績は、アイリッシュやスコティッシュのダンス・チューンをロック・バンドのドライヴで演奏するスタイルを作ったことだ。これと並んで大きいのが、フィドルをロック・バンドのリード楽器にしたことだ。そしてどちらも、スウォブリックを本当の意味で継承する存在はその後出ていない。

 スウォブリックはしかしそれだけの存在ではなかった。次にかれのフィドルが深い刻印をあたしの感性に刻んだのは、サイモン・ニコルとのデュエットで出した《CLOSE TO THE WIND》での〈シーベグ・シーモア〉だった。ニコルのアコースティック・ギターから始まり、スウォブリックのフィドルも生だ。デイヴ・ペッグが途中からベースで加わる。2人に支えられて、スウォブリックは奔放な変奏を重ねる。この曲は演奏者を狂わせる、とかれはどこかで言っている通り、曲を極限まで展開してみせる。《トゥルバドール》とは対極的な静かな狂気だ。やがてペッグが離れ、おちついてゆくのだが、最後の最後にひらめかせる捻りに、あたしはいつも投げとばされて伸びる。来ることはむろんわかっていて、身構えてもいるのだが、いつも投げとばされる。

 この曲には名演も数あるなかで、この演奏はダントツでベストだ。誰に聴かせても、途中から黙りこむ。そしておわると皆一様に溜息をつく。

 もう一つ、スウォブリックのフィドルの冴えに感銘したのは歌伴だ。相手はマーティン・カーシィではない。カーシィとのデュオは文句はつけようがないが、本当の良さがまだあたしにはわからない。たぶん聴き込み不足なのだろう。

 スウォブリックの歌伴のひとつの究極はA・L・ロイドの〈The Two Magicians〉だ。この曲自体、ロイドが様々な版から編集した、ほとんど創作といってよいものだが、これがロイドとスウォブリックの飄逸なうたとフィドルで演奏されると、なんともたまらないおかしみがにじみ出る。解釈のしかたによっては、このうたは今では政治的に正しくないとされかねないが、本来は知恵比べ、一種のゲーム、ユーモアとエスプリをたたえた遊びをうたったものなのだ、とこれを聴くとわかる。スウォブリックのフィドルの軽みはロイドのうたを浮上させ、舞い上がらせ続ける。

 スウォブリックのキャリアのハイライトは他にもたくさんある。晩年の、本人のふんふんという唸り声だけが伴奏のソロ・ライヴもいい。「フルハウス」フェアポートの再編による《SMIDDYBURN》が出たときには狂喜乱舞したし、今でも聴けば興奮する。マーティン・ジェンキンズとの Whippersnapper は目立たないが重要な実験だ。

 録音も多い。全部きちんと聴こうとすれば、残りの人生がつぶれそうだ。フィドルという楽器の可能性がそこに尽くされているとは言わないが、これだけいろいろなフィドルを弾ける人間はまあ一世紀に一人ではないか。かれが数ある楽器のなかから、フィドルをおのれの楽器として選びとったことは人類にとってとても幸せなことだった。そう、かれはフィドルを選びとったのだ。フィドルを含む伝統の中に育ったのではない。だからこそ、あれほど多種多様なフィドルを弾けたのだ。あたしにとって、かれはフィドラーであって、断じてヴァイオリニストではなかった。

 スウォブリックの前にスウォブリック無く、スウォブリックの後にスウォブリックはいない。

 さらば、スウォブ。ありがとう。合掌。(ゆ)