イベントをやるのはイベントそのものもさることながら、そのための準備が楽しい。その準備の楽しさだけでイベントに出ることを引き受けることもある。
明日の東京アイリッシュハープ・フェスティバル2017で栩木伸明さん、村上淳志さんと座談会をやることになり、準備のためあれこれ音源を聴いていて一番の「ヘビロテ」になったのが「マッサン」のサントラに入っている〈Ellie's Ambition〉だった。ドラマのメインテーマを Tricolor の3人だけでやった1曲だ。
初めてこれを聴いたとき、メインテーマと同じ曲とまるで気がつかなかった。ドラマのための音楽は富貴晴美氏の作曲になるはずだが、これだけはひょっとしてアイリッシュかスコティッシュの伝統曲を改作したか、中村さんか長尾さんが作ったのだろうかとすら考えた。
勘違いした第一の原因は中村さんの弾くブズーキの音である。楽譜に書けばおそらく同じ音、メロディなのだろう。それがブズーキによって一音一音いつくしむように演奏されると、まったくアイルランドかスコットランドの響きになる。ここではもちろんアイリッシュ・ブズーキと俗称される、ドーナル・ラニィたちが改造したフラットバック、ロングネックの楽器だが、外形だけでなく、チューニングもギリシアよりもアイルランドの音楽に合うように変えてあるのだ、とようやくに思い当たった。
CDなら冒頭や掉尾に入っている、オーケストラや合唱のものと比べてみれば、その違いは一聴瞭然だ。確かにメロディはケルト風味ではあるが、オケや合唱ではあくまでも滑らかに、流れるように演奏されていて、風味はあまり目立たない。むしろ、なるべく目立たないように演奏されているようにも聞える。それがブズーキになると、音のつながりよりも飛躍が際立ち、メロディは流れるよりもとび跳ねる。
この飛躍は元来は楽器の特性よりも、メロディのベースとなっている音階、つまり旋法から来ているはずだ。オケや合唱では、長調または短調に丸めこもうとするところを、ブズーキではもともとの音階本来の性格が顕わになるのだろう。
勘違いの第二の原因は中藤さんのフィドルの響きである。ブズーキとギターでメロディを一通りさらってからさりげなくフィドルがそのメロディを奏でだしたときには、背筋に戦慄が走った。その後、何度聴きかえしても、ここでは背筋がぞくぞくする。
中藤さんのフィドルの「深み」に驚いたのは、記録をめくると3年前の「野と花」のライヴのときだが、このサントラの録音はそれより少し前だろう。たとえていえばマレード・ニ・ウィニーというよりはジュリア・クリフォードだ。
アイリッシュやスコティッシュの伝統音楽でミュージシャンの実力が出るのはダンス・チューンよりもスロー・エアである。アップテンポではノリでごまかせても、メディアムからスローテンポでは、技量だけでなく、人となりまでが顕わになってしまう。音楽に対する態度から、果てはその日の朝食べたものまで顕われる。中藤さんのフィドルからは「人」が消えて、音楽だけが、伝統を背負い、また支えられた音楽だけが流れでる。
このトラックでは後半、テンポを変えて、リール仕立てになる。スコットランドの伝統音楽では定番の、スロー・エア>ストラスペイ>リールの三点セットにならったと言えなくもない。ストラスペイにはさすがにならなかったようだが、同じメロディをテンポを変えて演奏する楽しさはかえってよくわかる。ここでも中藤さんは装飾音を入れだす。こうなると装飾音がどういうものか、実によくわかる仕掛にもなっている。
イベントのための準備では、その音源がイベントの趣旨に合うか、使えるか、聴きながら考えたり検討したりしているが、このトラックにはそんなことは忘れて、まったく聞き惚れてしまった。と曲が終わってから気がついた。選曲が一応すんでも、曲順とか、再生システムや環境のチェックをするので一部または全体を何度か聴きなおすわけだが、その度にこの録音には聴き惚れてしまう。おまけにアルバムの他のトラックと比べてひと際録音がいい。この演奏にはやはりなにかが宿っている。
この演奏がドラマの中で実際に使われたのかも知らないが、一般のリスナー、あるいはスコットランドやアイルランドの伝統音楽は通り一遍のものしか知らないリスナーがこれをどう聴くのかは興味ぶかいところではある。願わくはこれに誘われて、伝統音楽の深みへと辿っていかれるリスナーのおられんことを。(ゆ)
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