「アイリッシュ」ハープと銘打たれてはいるが、今回のゲストの二人はスコットランドからとはどういうわけだ、と言った不粋な人はたぶんいなかっただろう。ワークショップはレイチェル・ヘアのスコティッシュ・ハープ、ジョイ・ダンロップのスコティッシュ伝統歌謡講座、どちらも満員盛況。その成果は夜のコンサートで早速発揮されて、ジョイの披露したマウス・ミュージックで客席から声が合わされた。それも英語ではない、スコティッシュ・ゲール語、いわゆるガーリックでだ。教師も優秀なら、習う方も熱心に集中されていたのだろう。
スコットランドへの露払いを、栩木伸明さんとともに村上さんから仰せつかったわけだが、どれくらいそれができたかははなはだ心許ない。もちろん栩木さんや村上さんのせいではなく、あたしの問題である。ご来場された方々には少しでもスコットランド音楽の面白さを感じていただけたら幸いだが、昨日の補足をこれからこのブログでもやる予定ではいます。話せなかったことはまだまだたくさんある。たとえば昨日はもっぱらインストルメンタルに話が傾いたけど、スコットランドはアイルランドよりもうたの比重が大きい。なによりロバート・バーンズという巨人の存在は、ほんの一言でも触れるべきだったので、終ってしまってから、それこそ「しまった」とホゾを噛んだのでありました。
とはいえ、スコットランド音楽のすばらしさに触れるには、あたしなどが千万言を費すよりも、レイチェルとジョイの音楽を聴いてもらう方が遙かにいい。
というよりも、彼女たちの音楽は、スコットランドと言わず、アイルランドと言わず、あるいはヨーロッパのどこと言わず、およそ今の伝統音楽の理想の形なのである。伝統音楽の最先端であり、かつ伝統音楽のコアに限りなく近い。英語の 'radical' には「過激な」と「根源的な」との、一見相反する二つの意味がある。この二つが実は同じものの二つの側面であることは、このことからもわかるけれど、レイチェルとジョイの音楽はまさに 'radical' そのものだ。
二人は何よりもまずいま「旬」である。ミュージシャンとしてのキャリアから言えば、助走から最初の飛躍をして新たな段階に乗り、大きく花開いた時期にある。自分のやっていることの手応えを摑み、やることなすこと面白く、新鮮なエネルギーに満ちあふれている。
それが最もはっきり現れていたのはレイチェルのハープの、ほとんどパーカッションと呼びたい響きだ。レイチェルがハープをがんがんはじく様は、指が肉ではなく、もっと遙かに強靭な物質でできているようにみえる。増幅などしていない、完全な生音のはずなのに、ホールの効果もあるのか、それまで出てきたどんなハープよりも、大きく明瞭に響く。坂上真清さんの金属弦よりも大きい。アイルランドに比べて、スコットランドのハープ奏者は一音一音明確に演奏する傾向があるが、その中でも際立ち、メロディよりもリズム、ビートが前面に立つ。
リズムをはっきり押し出すのはスコットランドの性格の特徴と言えるかもしれない。われわれのレクチャーでも栩木さんが指摘されたが、マウス・ミュージックでも、スコットランドのものを聴くとその点がいやでもわかる。
スコットランドにはウォーキング・ソング waulking song という、もともとは作業のためのうたが伝えられている。スコットランド西部、アウター・ヘブリディーズ諸島で特産のツイードの布地をテーブルに叩きつけて縮ませる作業の際、多人数でおこなう作業のタイミングを合わせるのと、退屈をまぎらわせるためにうたわれていたものだ。今は人が手で叩きつけることは、布地の生産のためにはおこなわれていないが、うたは独自の生命をもって生き残っている。帆船の作業歌だったシー・シャンティと同じだ。ちなみにこの作業はスコットランド移民の多いカナダ東部ノヴァ・スコシアのケープ・ブレトンにも伝わり、milling frolicks として残っている。実際にどんな作業かは YouTube などに動画がたくさんある。
ウォーキング・ソングがとんでもなくカッコいい音楽になることを最初に示したのは、カパーケリーの四作め《SIDEWAULK》冒頭のトラックだった。以後、様々なミュージシャンたちが様々な形にアレンジ、展開し、ジョイも自身の録音でとりあげていることは、あたしらのレクチャーでも紹介した。
生演奏と録音は別物であることは承知しているが、こういううたを生で聴くとあらためてそのことを思い知らされる。活きの良さが違うのだ。これはもうどうしようもない。音楽というものの玄妙さとしか言いようがない。これを味わえただけでも、このライヴを見た甲斐があった。
ところがだ。ハイライトは別にあった。スコットランドのうたで最も美しいうたはまず例外なく哀しいうただと言ってジョイがうたいだした。レイチェルのハープもここでは打楽器的な性格を抑える。そうするとこの人のハープはそれはそれはリリカルになる。
スコットランドのメロディはアイルランドのものよりも起伏が大きい、とあたしは思う。音が飛躍する、つまり急に低く沈んだり、高く跳んだりもする。これがはまると、聴いていてなにと名付けようもないもので胸がいっぱいになってくる。ガーリックでうたわれる言葉の意味などまったくわからないのに、うたにこめられた深い感情が聴く者の中にあふれだす。
たぶん哀しいのだ。どこまでも哀しい。その哀しさのどこかに光、とまではいえない、ほのかな明るさが滲みだす。希望まで固まらない、その種のようなもの。むしろかすかな祈りだろうか。しかもその何かを感じていることの幸福感も確かにある。人はこれをカタルシスと呼ぶのかもしれない。
人の声とハープの響きだけで織りなされる綾織りは、なにかひとつでもそこに加われば汚れてしまうような豪奢な美しさに満ちる。
レイチェルはふだんダブルベースとギターとのトリオで活動しているが、昨夜はその二人の代わりにトシバウロンが1曲参加した。これが良かった。トシさんも実に様々な相手と実に様々なシチュエーションで共演する経験を重ねていて、ハープを相手にするコツも完璧にモノにしている。ベースとギターの代役というよりも、新しい形を作っていた。傍で聴いていたジョイが、あなたたち二人でツアーしなさいよ、と言っていたのも道理だ。
コンサートでは主催者の村上淳志さん、hatao & nami、坂上さん、そしてトリがレイチェルとジョイという演目で、それぞれに個性豊かで、いわばよくできた幕の内弁当をいただいたようだ。それぞれは短いのに、充実しているのである。
昨夜のサプライズはしかし、3番目に出たもう一人の主催者、木村林太郎さんの「秘密兵器」Anona だった。木村さんのハープにチェロ、ヴァイオリン、バゥロン、それに1曲イルン・パイプが入る。ここまではまあそう驚くことではないが、これに男女総勢20人だろうか、コーラスが加わった。全員が黒一色の衣裳にそろえ、MCとか説明を一切省いたミニマルな進行、うたはすべてラテン語(に聞えた)でレチタティーボを含むクラシックの唱法による音楽はアヌーナに対する、木村さんたちのオマージュというよりは挑戦だろう。昨夜はひとつの組曲として提示されたが、より拡大された形を、別の機会に聴いてみたい。
今年で3回目になる「東京アイリッシュハープ・フェスティバル」は、ミュージシャンたち自身が企画から設営、運営、進行まで担当した、手作りそのもののイベントだ。リハーサルの時間もまともにとれないなかで、そうした苦労も楽しんでおられるように見える。これまで東京、大阪、東京と来て、来年はまた大阪での開催を予定されているそうだが、これならこちらも時間とカネを作って行くだけの価値はある。
レイチェル・ヘアとジョイ・ダンロップはフェスティバルとは別に、今週末、伊丹と東京でワークショップとコンサートがある。今度は二人だけのフル・コンサートで、二人の音楽に思うさま浸れるだろう。ジョイは、アンコールでちょっとだけ披露したダンスももっと見せてくれるはずだ。東京は nabana がオープニングを勤めるから、そちらも楽しみだ。
フェスティバルを企画・運営された村上さん、木村さんはじめ関係者の方々、レイチェルとジョイを招いたトシバウロン、それに、つたないあたしの相手を勤めてくださった栩木伸明さんに心から感謝する。ありがとうございました。(ゆ)
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