ライヴというのはやはり録音とは違う。とあらためて思い知らされる。たとえ録音とまったく同じ演奏をしたとしても、ライヴで見なければわからないところが、音楽にはあるものだ。O'Jizo の録音の質が低いわけでもない。質の高低ではなく、それとは別の、ミュージシャンの本質にかかわる部分だ。

 乱暴を承知で言えば、O'Jizo は大人になっていた。成熟というともう行くところまで行ってしまった意味合いも含まれるとすれば、O'Jizo は伸びしろのある成熟ということになろう。思えば O'Jizo のライヴを見るのは久しぶりで、しかもトリオでは初めてだ。カルテットとトリオでは当然別のバンドになるわけだし、中村さんがこれだけアコーディオンを弾くのも、かつては無かった。もちろんミュージシャンたちはどんどん変わっているわけだ。

 しかしそういう変化は録音では表に出難いものかもしれない。音楽上のスタイルというよりも、基本的な態度、音楽に対してどう向き合うかの変化だからだ。ミもフタも無い言い方をすると、どうすれば演奏していて一番気持ちよくなれるか、でもある。

 そういうところが変わらない人もいるだろう。基本が変わらないまま、スタイルがどんどん変わる人もいる。スタイルはそれほど大きく変化しないのに、根本が変わってゆく人もいる。あるいはどちらも変わらない人もいるにちがいない。

 豊田さん自身も変わっている。ケイリ・バンドでの体験は苦労した部分も多々あったが、それだけ収獲も大きかったようだ。O'Jizo はオリジナル曲が多いが、曲の構造や成立ちは伝統音楽と同じだ。楽器も同じなのだから、使う技法や骨法は同じだ。伝統曲よりは、伝統の外から持ち込んでいる要素が多少多いくらいだ。外部から持ち込んだそこが面白いわけだが、それをいかにも外から持ち込んだとわかるようにやってしまっては、面白くはならない。あたかも伝統曲を演るように演ってはじめて面白くなる。そこのところで、ケイリ・バンド体験がモノを言ってくるだろう。何といってもケイリのための演奏は、伝統の根幹に限りなく接近することを要求される。

 もっとも変わったといえば、一番大きく変わっているのは中村さんだ。かつてのかれのアコーディオンはいわば味付け、アレンジの膨らみの部分のためだった。だからピアノ・アコーディオンで充分とも言えた。しかし気がついてみれば、中村さんのピアノ・アコはすでにメロディ楽器として中心にいる。この日はたまたますわった位置もセンターで、珍しいそうだが、そこにいることがごくあたりまえに見えた。告白すれば、これほどになっていたことにまったく気がついていなかった。新作を初めて聴いたとき、あれ、このアコーディオンは誰かしらん、ゲストの一人かと思ってしまった。クレジットを見て、ゲストにアコーディオン奏者が見当らず、あらためて見直した。ライヴといえば、どうやらこれまでのところ、中村さんが入ったライヴを一番数多く見ている。意図してそうしているわけではないが、所属バンドが一番多いということかもしれない。しかも、そのどれにあっても、やっていることが違う。違いながら要になっている。ひょっとするとこの人、天才なのではないか。一つのことに突出するのではなく、様々に異なるシチュエーションを違和感なく渡り歩き、そのそれぞれで全体を浮揚させる。地味な天才。

 長尾さんは対照的に、どこにあっても長尾さんだ。音を聴けば、ああ、長尾さんとわかる。O'Jizo にあっても、その存在が錘になっている。全体を安定させている。言い換えれば、最終的に O'Jizo の形を据えているのはかれのギターだ。その長尾さんもマンドリンを弾いている。メロディを弾いている。O'Jizo の熟成を特徴づけるものを一つだけあげよといわれれば、長尾さんのマンドリンがそれだと言ってみたい。

 豊田さんによれば、O'Jizo はこれからむしろメンバーを増やす方向に向かおうとしている。やはりそう来たかととても楽しみな展開ではあるのだが、この日のライヴを見ると、トリオとしてのさらなる熟成を見たい気もする。長尾さんのギターと中村さんのブズーキの編みなす精妙なグルーヴに、さわやかな粘りのある豊田さんのフルートが乗ってゆくなじみのある形の芳醇を、もっと味わいたくもなる。

 昨年カナダに同行して、ジョンジョンフェスティバルが国産バンドとしては一頭地を抜いたかと思ったのだが、なかなかどうして、音楽の深さでは、O'Jizo もおさおさ劣るものではないのだった。

 それにしても、もっともっとライヴを見なくてはいけない。(ゆ)


Via Portland
O'Jizo
TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-05