1969年生まれの南インド、カルナータカ出身の美術家の展覧会。どちらかというと北よりは南の方が好みではある。ビームセン・ジョーシーよりもスブラクシュミだ。シタールよりもヴィーナだ。ヴィーナはこの展覧会でもあちこちに出てくる。インド亜大陸は英国の植民地化が完成するまで、全土が統一政権のもとに入ったことはない。南は常に独立していた。展示の一角に中世マイスールの寺院の壁に刻まれた細密彫刻のスライドがあった。精密極まる細部と、全体の規模の巨大さに圧倒される。この時期の南インドは現在のインドネシアからアフリカまで股にかけた海洋帝国をつくっていて、各地に巨大な建築が残っているそうだが、あらためて舌をまく。

 会場に入ってまず感じたのは、巨大な量感だ。でかいだけでなく、ぎっしり中身が詰まっている。全体として巨大だが、細部まで描きこまれていて、細かく見ようと思えばいくらでもストーリーが見えてきて、まともにつきあおうとしたら1日や2日ではすみそうもない。まさに、『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』の世界だ。ちなみに『ラーマーヤナ』には南インド版ともいえる『カンバ・ラーマーヤナ』もある。『カンバ・ラーマーヤナ』が『ラーマーヤナ』を11世紀タミールナドゥの時空に置き換えた語直しであるように、ハルシャの作品群も現代のマイスールに置き換えた世界の物語の語直しに思える。

 こんなに物語を感じた美術展は初めてだ。一つひとつの作品がそれぞれに物語を語り、その細部がそれぞれに物語を語り、そして展覧会全体が物語を語る。その物語は当然一つではなく、いくつもの物語が重なり、響きあい、あるいは飛び交い、錯綜する。しかし混沌ではあっても混乱ではない。秩序とは違うなにかの、論理でもない、つながり、筋がある。作品独自の、それぞれの細部の、そして作家のなかの、つながりがある。明瞭に見えるわけではなく、むしろ暗示されている。物語は作家の中にあるのではなく、見る者の中にあり、それが作品によって誘発され、引き出されるようでもある。

 絵画作品、とはまた違う。床の上に説明もなく、あちこちほおり出されているように置かれている「絵」もある。天井に一つだけ離れて描かれているものもある。インスタレーション、パフォーマンス作品が入交る。「彫刻」の部類もある。ひと部屋全部、各国の国旗の上に置かれたミシンで埋めつくされ、壁にそって積み上げられたそれらの間に色とりどりの糸やヒモが渡されている。これは鑑賞よりも体験だ。展覧会全体が、見るよりも体験するように構成されている。床に寝転んで天井の鏡に映る床に描かれた顔の中の自分の姿を見る。高さ3.7メートル全長24メートルの循環する宇宙の環は「見る」だけではどうしようもない。子どもたちが思い思いに色を塗りたくった白いシャツの壁一面の展示。これはむしろ、来訪者一人ひとりが白いシャツにその場で色を塗れるようにしたかったのだろう。

 絵画として見ても、もちろんヨーロッパの伝統とはまったく異なる。遠近法がほとんど無い。無限とも思える反覆と繰り返すたびに少しずつ変化する差異に、巨大な画面に吸いこまれてゆく。「チャーミングな国家」のシリーズはぼくらが見慣れた絵画に一番近いとも言えるが、これも全体が1枚の「絵」であって、それぞれのフレームの中はその一部であると見るべきかもしれない。

 こうして体験するものは何か。

 一つは底知れないエネルギー。そして、ユーモアのセンス。そこから生まれるこの世に生きてあることの肯定だ。クソッタレとはきだしたくなることも多いし、どんどん増えるような気さえするが、それでも世界がこうしてあること、そこに生きていることは、それだけですばらしい。ポジティヴなエネルギー、ポジティヴなユーモア、楽天的であろうと意志する力。

 その意味で一番印象的なのは全体の核をなす「ここに演説をしにきて」とそのすぐ横、順番でいえば直前に置かれた「溶けてゆくウィット」だ。展示室の中でみると、奥の壁いっぱいを占める前者の前には人がたくさん立っているのだが、その右手の後者の前にはほとんど人がいない。しかし、おそらくこの二つはペアになるものだろう。少なくともぼくにはそう見えた。後者があるからこそ、前者が生きてくる。前者だけでは肝心なものが脱けてしまう。後者を描いているからこそ、この人は信用できる。

 買ってきた図録をぱらぱらやっていると、また記憶がよみがえる。最後の方に置かれていた「消費の連鎖の中で」を見ると、『ラーマーヤナ』の悪役、ラーヴァナとはこれのことだったのかとあらためて思い当たる。ラーヴァナは「ここに演説をしに来て」のなかにもいる。顔が向かって右に5つ、左に4つ着いていて、両隣が邪魔そうにしているのがそれだ。

 展覧会はたいていくたびれるものだが、今回のくたびれ方はまた格別だった。満腹感と高揚感もたっぷりしていて、身体はくたくただが、気分はさわやか。

 やはりインドは面白い。

 それにしても、土曜日午後の六本木ヒルズの人混みには辟易する。まっすぐ歩けない。森美術館ではこのハルシャ展の他に、マーヴェルとエルミタージュの展覧会も開かれ、さらにミュシャもまだやっていて、地上の入口では会場に入るまで30分とか出ていて恐れをなしたのだが、幸い、ハルシャ展はそれほどの混みようではなかった。それでも若い人たちがたくさんいるのには意を強くする。こうなると我々のような老人も、印象派ばかりではなくて、こういうものも見ろよ、体験しろよと言いたくなる。エルミタージュ展には老人が多かったのだろうか。手許の券は三つとも見られるものだったが、他を見るまでの体力はなかった。

 この展覧会に招いてくれた川村龍俊さんに心から感謝。(ゆ)