ヴィオラの音は好きだ。たぶん最初に意識したのはヴェーセンで、次がドレクスキップだった。五弦ヴァイオリンはヴィオラの音域まで行くけれど、やはり響きが違う。ボディが大きいだけ、深くなる。もともとはオーケストラに必要でおそらく重宝がられたのだろう。さもなければ、こんな中途半端な楽器が残ろうとは思えない。ヴァイオリンの次はチェロになるのが自然だ。とはいえ、この深い響きもヴィオラが生き残ってきた理由の一つにはちがいない。
小松さんはもともとクラシックではヴィオラ専門なのだそうだ。今でもクラシックでヴィオラを弾くこともある由だが、かれのフィドルに他のフィドラーでは、アイルランドやアメリカも含めて、聴いたことのない響きが聴けるのはたぶんそのせいだろう。いや、その点では、ジャンルを問わず、フィドルからああいう響きを聴いたことはない。金属弦とナイロン弦の違いだけではないはずだ。
この響きは録音でも明らかだが、その本領はやはりライヴでしか味わえない。技術的に録音するのも難しいし、再生もたいへんだ。響きの深み、音の高低ではなく、音そのものがふくらんでゆく様は、ライヴでしかたぶん聴けない。
その響きは演っているほうもたぶん好きなので、それを活かすためだろう、テンポがあまり速くない。リールなどでも、じっくりゆっくり弾く。このデュオでも始めは速く演奏していたらしいが、だんだん遅くなってきたとMCでも言っていた。それはよくわかる。響きとテンポのこの組合せはひどく新鮮だ。マーティン・ヘイズがゆっくり弾くのと、共通するところも感じる。意識してこのテンポに設定しようというのではなく、自然にこういうテンポにどうしてもなってしまう、おちついてしまうのだ。だから聴いていてそれは心地良い。最後にやった7曲のメドレーでもテンポは上がらない。
ヴィオラで弾いたダンス・チューンも良かった。もちろんこんな試みは、本国でもほとんどいないし、これまたやはり生でしか本当の音は聴けない。うーん、ヴィオラを録音できちんと聴くのは結構難しいぞ。と生を聴いてあらためて思う。それとは別に、メロディが低域に沈みながら浮遊してゆくときのなんともいえない艷気は、ほとんどアイリッシュとは思えない領域。アイリッシュ・ミュージックは基本的に高音が大好きな音楽だから、こういう艷気は初めてだ。
山本さんのギターが小松さんのフィドルにまたよく似合う。これはトニー・マクマナスだなあと思って聴いていたら、お手本はトニー・マクマナスと後で伺って納得した。コード・ストロークやカッティングよりもアルペジオを多用する。なので空間が拡がり、小松さんの響きがより浮かび上がるのだ。デニス・カヒルも入っているようで、音数がマクマナスよりも少ない感じもある。その少なさが、さらに空間を拡大する。そうみると、この二人、音楽的スタイルは違うが、あのデュオに一番近いのかもしれない。音楽の哲学がだ。
山本さんはギター・ソロも披露し、そこでもリールのメドレーを弾いたし、フィドルとユニゾンもしたり、これまでわが国のアイリッシュ・ミュージック界隈にはあまりいなかったタイプのギタリストだ。もうすぐソロ・アルバムも出されるとのことで、こちらも楽しみだ。アプローチは対照的だが、中村大史さんのソロと聴き比べるのも面白そうだ。
二人ともチューンに対しては貪欲で、珍しいが良い曲を掘り出すのが好きらしい。聴いたことのある曲がほんの数曲というのも、珍しくもありがたい体験だ。定番を面白く聴かせてもらうのも楽しいが、聴いたことのない曲をどんどんと聴けるのは、また格別だ。それにしても、カトリオナ・マッケイの〈Swan LK51〉は人気がある。演っていて楽しいのだろう。
お客さんにいわゆる「民間人」はどうやらいなかったようで、お二人の知合いも多かったようだ。無理もないところもあるが、チーフテンズしか聴いたことのない人が聴いてどう思うか、訊ねてみたい気もする。次の東下は11月19日。ドレクスキップの野間さんと浦川さんのデュオとの対バンの由。これまた楽しみだ。(ゆ)
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