音楽について書くことの参考になればという下心から読んだのだが、期待した以上に面白い。この本にはいろいろな版があるが、読んだのは市立図書館にあった双葉文庫版。この版の後に The Cellar Door Sessions も出ていて、あたしはこれが一番好きなので、これについて著者が何を言っているかはちと気になる。
マイルスは一通りは聴いた。これも市立図書館に、幸いなことに初期からめぼしいものは揃っていて、最後は Dark Magus。パンゲアとアガルタは買ってもっている。この二つは出た当時、ミュージック・ライフにもでかでかと広告が出ていたのが印象に残っている。当初は「パンゲアの刻印」「アガルタの凱歌」というタイトルで、広告の中では「刻印」「凱歌」の方が遙かに活字が大きかった。いつのまにか、この二つが落ちてしまったのは惜しい気もする。ニフティサーブの会議室で教えられて、プラグド・ニッケルのボックスも、ちゃんと輸入盤を買っていた。
聴いたなかで好きなのは上記セラー・ドアとダーク・メイガス。そしてスペインの印象。復帰後はまったく聴いておらず、本書を読んで、やはり一度は聴かなあかんなあ、と思いだした。
マイルスは一通りは聴いたものの、ザッパやデッドのように、はまりこむまではいっていない。アコースティック時代はプラグド・ニッケルも含めて、ピンとこなかった。セラー・ドアでも一番気に入っているのはキース・ジャレットとジャック・ディジョネット。ジャレットはこんな演奏はこの時でしか聴けないし、ディジョネットはスペシャル・エディションも好きだけれど、このバンドでの演奏はやはりピークだ。
ダーク・メイガスはなぜかアガ・パンの後と思いこんでいたのだが、本書によると前になる。やはり、この昏さがアガ・パンよりも胸に響いた。終盤、失速するようにぼくには聞えるアガ・パンよりも、最後まで疾走しつづけるところもよい。
マイルスのトランペットの音も、印象に残っていない。うまいと思ったこともないのは、「ジャズ耳」がぼくには無いということか。ぼくにとってのマイルスは優れたプレーヤーというよりも、バンド・リーダー、ミュージック・メイカーで、むしろクインシー・ジョーンズに近い。ジョーンズよりは現場で、自ら引っぱってゆくのが違う。
ということで読みだして、いや、蒙を啓かれました。著者はぼくに近いところからマイルスを聴きはじめて、アコースティック時代の勘所もちゃんと聞き取っている。ロックも幅広く聴いている。ルーツ・ミュージックはそれほどでもないようだが、こういう広い耳を養いたい。器用というのではない、それぞれの勘所をちゃんと聞き取る柔軟性と、その上で取捨選択をする度胸を兼ね備えたい。後者はおのれの感性への信頼と言い換えてもいい。
とはいえ、著者やぼくのように、ジャズよりもロックを先に聴いていて、そちらが青春という人間の耳には、エレクトリック時代の方がピンとくるのだろう。ジャム・セッションが嫌いと言い切る著者の耳は、ジャズが青春だった人びとの耳とは異なる。
ジャズの定型のソロまわしは、ぼくも嫌いだ。回す楽器の順番まで決まっているのもヘンだ。あれをやられると、どんなに良いソロを演っていても、耳がそっぽを向く。似たことはブルーグラスでもあって、ブルーグラスが苦手なのはそのせいもある。そうすると、あのソロの廻しはアメリカの産物、極限までいっている個人主義の現れとも見える。ジャズのスモール・コンボは、ビッグバンドが経済的に合わなくなって生まれた、とものの本には出ているが、それだけではないだろう。オレがオレがの人間が増えたのだ。同時にそれを面白いと思う人間も増えたのだ。アンサンブルよりも、個人芸を聴きたいという人間が増えたのだ。クラシックでも第二次世界大戦後、指揮者がクローズアップされるようになる。オーディオ、はじめはハイファイと呼ばれた一群の商品の発達も、同じ傾向の現れとみえる。
その点ではグレイトフル・デッド、それにおそらくはデューク・エリントン楽団は、集団芸であるのは面白い。エリントンを好む人たちのことは知らないが、デッドヘッドは自分だけが楽しむのでは面白くない人たちでもあった。
マイルスはオレがオレがの人だったことは、本書にも繰り返し出てくる。面白いのは、オレを通そうとして、集団芸にいたるところだ。ザッパの場合、集団芸から出発して、最終的に個人芸を極める。後期になるほど、そのバンドは、ジョージ・セルにとってのクリーヴランド、バーンスタインにとってのニューヨーク、ワルターにとってのコロンビアに似てくる。マイルスとバンドとの関係は、それとは異なる。と本書を読んでいると思えてくる。
マイルス本人の意識としては集団芸を追求しているつもりはたぶん無かったであろう。しかし、その方法は、自分はバンドの上に立って指揮統率し、一個の楽器としてこれを操って目指す音楽を実現しようとする、というよりは、自分もメンバーとなったバンド全体から生まれる音楽がどうなるか、試しつづけた、と本書を読むと思える。
マイルスとしては、いろいろなメンバーで、あれこれ試す、ライヴをやったり、スタジオに入ったりして、試してみるのが何よりも面白い。それを商品に仕立てるのはどうでもいい、とまでは思っていなかったとしても、めんどくさい、テオ、おまえに任せた、とは思っていただろう。
ザッパは商品に仕立てるところまで自分でやらないと気がすまなかった。デッドはマイルス同様、商品を作るのはめんどくさいが、しぶしぶやっていた。他人に任せても思わしい結果が出ない。つまり、デッドはテオ・マセロに恵まれなかったし、そういう人間は寄りつかなかった。それにとにかく演奏することを好んだ。
マイルスもライヴは好きだっただろう。ただ、スタジオで、好きなように中断したり、やりなおしたり、組合せを変えてみたり、という実験も同じくらい好きだった。ライヴで試してみることと、スタジオで試してみることはそれぞれにメリット、デメリットがあり、出てくるものも異なる。その両方をマイルスは利用した。
そのことはどうやら最初期から変わっていない。パーカーのバンドのメンバーとして臨んだ時から、モー・ビーとのセッションまで、一巻している。
デッドは幸か不幸か、サード、Aoxomoxoa を作った体験がトラウマになったのではないか。そのために、それ以前から備えていたライヴ志向が格段に強化され、ライヴ演奏にのめり込んでいったようにみえる。
それにしても著者の断言は快感だ。のっけからマイルス以外聴く必要はないと断言されると、あたしなどはたちまちへへーと平伏してしまう。もちろん、そんなことはない。ザッパもエリントンも聴かねばならない(ジャズを聴くんだったらモンクとミンガスも聴かねばなるまい)。デッドはもっと聴かねばならない。しかし、一度断言することもまた必要だ。そこで生まれる快感から、人の感性は動きだすからだ。
そしてとにかくまず聴いてナンボだということ。本書全体がマイルスを聴かせるための仕掛けなのだが、その前に著者がまず徹底的に聴いている。ここに書いてあることに膝を叩いて喜ぶにせよ、拳を振り上げるにせよ、著者がマイルスをとことん聴いていることは否定できない。たぶん、著者は何よりもその報告をしたかった。聴いてみたことの記録を残したかったのだ。ここまで聴いて初めて、何かを聴きましたと言えるのだ、と言いたかったのだ。モノを言うのは聴いてからにしろ。タイトルは『聴け!』だが、内実は『聴いたぞ!』だ。『おまえは聴いたのか?』だ。
もちろん、いつ何時でもそんな風に聴かねばならないわけではない。ユーロピアン・ジャズ・トリオの代わりに、In A Silent Way を日曜のブランチのBGMにしたっていい。オン・ザ・コーナーをイヤフォンで聴きながら、原宿を散歩したっていい。ただ、本書のような聴き方をすることが、マイルスの音楽には可能であることは、頭の隅に置いておくことだ。そうすれば、マイルスの音楽はそれぞれのシチュエーションにより合うように、その体験をより楽しめるようになるはずだ。
これはマイルスの音楽の聴き方であって、同じ聴き方がザッパやエリントンやデッドにもあてはまるわけではない。何よりも音楽の成り立ち方が異なる。それぞれにふさわしい聴き方を編み出してゆく必要がある。というよりも、それを見つけることこそが、音楽を聴くということなのだ。バッハとモーツァルトでは聴き方を変えねばならない。ビートルズとストーンズでは聴き方は違う。ふさわしい聴き方を見つけるためにはとにかくとことん聴かねばならない。そもそもマイルスの音楽が自分に合うかどうかすら、聴いてみなければわからない。
「ついでにいえば、ぼくはこうしたムチャクチャな商売のやりかた、2度買い3度買いさせて反省の色もない業界の強引なやりかたこそがファン激減の最大要因と考えている」(11pp.)
音楽を真剣に聴く人間が激減している最大要因もそこにあるとあたしも考える。その背後には著作権への勘違いないし濫用がある。とはいえ、悪いのは「業界」ばかりではない。
「つけ加えれば、ジャケットが紙になろうが、オトが良くなろうが、音楽を最深部で捉えていれば、“感動”の大きさに変化はないとうことを知るべし」(12pp.)
つまり、そのことを知らない人間、音楽を聴くのではなく、所有することで満足する人間が多すぎる。ジャケットが紙になったから、オトが少し良くなったからと、同じ音源を2度買い3度買いする人間がいるから、業界もそれを商売のネタにする。できる。
音楽はそれが入っている媒体を所有するだけでは、文字どおりの死蔵なのだ。紙の本は所有するだけで読まなくても、そこから滲みでるものがある。音楽は、レコードやファイルをいくら所有しても、何も滲みでてはこない。紙の本を読むためには、そのためのハードウェアは要らない。しかし、音楽を聴くには、演奏してもらう場合のミュージシャンも含めて、そのためのハードウェアがいる。楽譜を読めたとしても、聴くのとは異なるし、すべての音楽が楽譜にできるわけでもない。
そう見るとデジタル本をいくら持っていても、滲みでてくるものは無いなあ。
漱石全集のように断簡零墨まで集めた全集を読破することで読書力は飛躍的に高まる。骨董品の鑑定力を身につけるためには、良いもの、ホンモノをできるだけ多く見るしかない。音楽もまた、一個の偉大なアーティストを徹底的に聴くことで、聴く力が養われる。音楽をとことん聴くこと、聴いたことを表現することにおいて、これは一つの到達点だ。ここをめざすつもりはないが、この姿勢は見習いたい。(ゆ)
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