いやあ、面白かったあ。ほとんど一気読みに読んじゃいました。面白いのは、新たな風景を繰り広げてくれたのと、語り口の良さ。いろいろと不満のあったこれまでのものを一掃するような、爽快な、今の時代のためのジャズ史がようやく現れてくれました。
これまでの著者の「いーぐる」での講演とか、あちこちで触れているので、個々にはそう真新しいことはあまりないんですが、こうしてまとめられると全体像としてすごく斬新になってきます。同じ著者の『ジャズの明日へ』もめっちゃ面白かったけど、あれのジャズ史全体への拡大版と言えなくもない。
ポイントはまずジャズとブルースを分けたこと。ジャズはブルースから発展したのだ、みたいなことが漠然と言われていて、なんとなく納得した気になってましたが、じゃあ、具体的にどういうふうに発展したのか、というと、音源が無いとかいって逃げられてたわけです。
この本の発刊記念の「いーぐる」でのイベントで、高橋健太郎さんが指摘していたように、同時代の音源とかいろいろ発掘が進んできてみると、ブルースが実はそんなに古くないんじゃないかってことになってきた。そうして改めて記録を見てみれば、20世紀のゼロ年代以前に、ブルースはどうも存在していないとみていい。一方でジャズの淵源をあらためてみてみれば、ニューオーリンズの音楽にブルースの影は皆無といっていい。ジャズとブルースが無縁とは言わないが、ジャズの発生にはどうもブルースは関っていない。むしろ、後から採用されていったものだろう。
二つ目のポイントはブラック・ミュージックとジャズを分けたこと。別の言い方をすれば、いわゆる「黒白史観」への訣別です。あれって冷戦時代の、なんでも2つに分けて、その対立で物事を説明しようとする心性だってことで著者と合意したこともあります。あれがまったく無意味とは言わない。あの時代にあって、ワケのわからない外来音楽であるジャズをなんとか自家薬籠中のものに押えこもうとした苦闘の末に編み出されたものでしょう。でも、もうそういう操作はそろそろ卒業していい。
ブラック・ミュージックがあるとして、それはブルースからR&B、ソウル、ヒップホップというのが本流で、ジャズとは別もの。ジャズの演奏家に黒人が比較的多いことは確かですが、アメリカの陸上スポーツやバスケットの選手に黒人が多いからって、誰もそれをブラック・スポーツとは呼ばない。
それにそもそもブルース自体、黒人音楽と白人音楽、という分け方ができるとして、それぞれの折衷または融合から生まれているんで、R&Bもソウルも、ヒップホップもその点では変わらない。ブラック・ミュージックという枠組そのものがそろそろ賞味期限切れなんじゃないか。
というようなことまで考えさせられますが、とにかく、黒白対決、黒人のハードバップ対白人のクールという図式があっさり棄てられているのは気持ちがいい。
三つめは『ジャズの明日へ』の拡大版であると同時に、進化版でもあって、フュージョン以降の姿がより明快です。それには、現在のジャズの隆盛も与っているでしょう。フュージョンを超え、その後の混沌からも脱けでて、新しい段階に入っているところから振り返っている。見通しが立たないところで手探りしているのも、それなりの面白さはありますが、そこから少し高いところに登って振り返ると、ああ、あれはこういうことだったのか、と見えてくる。
もちろん、ジャズが再び「同時代」の、「青春」の音楽になって、ある世代を作る、というようなことはないでしょうが、より広範囲に、より深く作用するようになることには手応えがある。
4つめはヴォーカルに光が当っていること。もっともジャズ・ヴォーカルというカタチは確かにあるけれど、それとジャズ本体(?)との関係って、必ずしも明瞭ではない。その関係は、ここでも明確にされたとまではやはり言えない。例えば、ビリー・ホリディの「ブルース」は、同時代のジャズ・ミュージシャンに影響を与えたのかどうか。与えたとすれば、どのようなものか。というのが、ぱあっと、わかったあ、ということにはならんのです。たぶん、これは誰にも明確には言えない。その後のジャズ・シンガーとジャズとの関係も然り。カサンドラ・ウィルスンはMベースの一員だったとして、じゃあ、《BLUE LIGHT TILL DAWN》はMベースとどうつながるのか、あるいは逆にスティーヴ・コールマンやグレッグ・オスビィの音楽に影響があるのか、ないのか。まあ、このあたりは、この本がめざすところとはまた別かもしれません。著者には別途、解明を期待します。
でも、とにかく、ジャズ史の本に、これだけ大挙してシンガーたちが登場したのは嬉しい。この部分は、小学館の『ジャズ・ヴォーカル』シリーズの第一期に掲載されたものを下敷にしていて、そのシリーズが絶好調ということもあるんでしょうけど、こうして見ると、やっぱり、これまで不当な扱いを受けていたと感じざるをえない。ひょっとして、シンガーには女性が多くて、そのためにマイク・モラスキーが指摘する、戦後のわが国ジャズ文化の男性中心主義から弾き出されたのかもと、「邪推」したくもなります。女子どもにゃジャズはわからねえ、できるはずがない、とかね。
こういうことを語る著者の語り口がまたいい。ですます調で、やわらかく、すいすい読めるので、ラディカルなことがすんなり入ってしまいます。著者の本をそんなにたくさん読んでいるわけじゃないですが、この語り口は新境地ではないでしょうか。
どんな本も完璧ではなく、欠点は必ずあります。もっとも欠点というのは、数えあげようと思えばいくらでもあげられるので、一つだけ、最大のものと思えるのをあげますと、これが「アメリカのジャズ」の歴史になっていること。
第五部が「ジャズの拡散」と題されてますが、これは内容の話で空間的な話ではない。わが国のジャズの話は柱の一本になっていて、そうだ、これも従来のジャズ史の本では見られない、この本の5つめのポイントです。で、そこでは遅くとも1920年代にはジャズがわが国に入ってきていたとある。とすれば、世界の他の地域にも入っているわけで、ヨーロッパだけではなく、中東あたりでも聞かれていたはず。
この本の結論の一つは、ジャズが世界音楽になっていることですけど、それを言うなら、ジャズはかなり初期の頃から世界的な現象だったし、あり続けている。ここにはキューバのイラケレが取り上げられていますが、だったらヒュー・マセケラを無視するのは不公平ではないか。マセケラが出てきた1960年代ともなれば、スウェーデンでも独自のジャズが勃興してきます。ということはドイツやフランスや、その他の地域でも同様でしょう。さらにはECMが営々と築いてきたものは、何なのか。パット・メセニーやキース・ジャレットばかり出してきたわけではない。
アメリカのジャズだけでも、その全体像を把握し、ジャズの内部だけではなく、外部にも目配りして、自分なりに咀嚼し、それを筋の通った形で記述するのは、それだけでも大変な作業であることは承知しています。足許のシーンはまだ手が届くとしても、全世界のジャズを呑み込み、消化し、吐き出すのは、一個人のようできるものではないかもしれません。
しかし、ジャズの歴史を掲げる以上、それは避けて通れない。アメリカのジャズにしても、世界音楽としてのジャズの中に置いて、初めてその真の位置と価値が現れてくるはず。この本の基本的姿勢は、ジャズをジャズの中だけで見るのではなく、アメリカ音楽全体のコンテクストにおいて捉えることで、それはみごとな成果を産んでいます。同じことは、世界音楽としてのジャズでも言えるはず。そして、著者にはそれが期待できる、と思うのです。
この本のタイトルにある「あなた」っていったい誰なんだろう、と読みおえてあらためて想いました。ジャズではなく、ロックが青春の音楽で、ジャズは40代も後半になって聴きだしたあたしのような人間は、この「あなた」にはどうも入っていないように感じます。副題というか、その後ろに目立たないように書かれている英語タイトルにある "new ears" の方がすんなり納得できます。ジャズを聴くことは、あたしにとっては「新しい体験」。そういう人間には、この本は、聞き逃していたところとか、自己流では気がつかなかった視点とか、いろいろと蒙を啓いてくれます。もうね、読んでると、ああこれも聴きたい、あれも聴かなきゃ、とどんどんと出てくるんですよね。カネもそうだけど、時間が無いのですよ、老人には。ジャズばかり聴いてるわけにもいかないし。罪作りな本です。
そうそう、さっきちょっと触れた、この本の刊行記念で四谷「いーぐる」で行われた、著者と高橋健太郎、原雅明の三氏による講演はたいへんに面白いものでした。それこそ、メウロコ、ミミウロコの音源が次々に出てきて、一度だけではもったいない。ぜひ、シリーズ化していただきたい。とまれ、まずはゲイリー・バートンだな。(ゆ)


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