今年で九年め。来年は十周年。2018年9月30日。何をやるのか、今から楽しみ。

 実に久し振りの岡さんのライヴ。一部は演歌をさらっと4曲。〈復興節〉の現代版から始まり、次の〈ストトン節〉がまずはハイライト。岡大介入魂のオリジナル歌詞をこれでもかとぶちこんだスペシャル版で、うたい終って、今日はもうこれで終りという気分です、という。全国回りながらうたううちに好きな歌謡曲が2つできました、とうたったのが〈王将〉と〈大東京音頭〉。

 前者は大阪のうたということで登場したのが、桂九雀師匠。落語はそれほど好きではないが、大いに笑わせていただきました。教養の無い成金の隠居がステイタスが欲しくてデタラメにやる茶の湯で皆が迷惑する噺。上方の方だけど、あんまり関西弁は強くない。あるいは東京というので手加減されたのかもしれない。

 シンガーのライヴに落語家が出るというのも、岡さんのものくらいではないか。確かに諷刺を旨とするところで演歌と落語は通底するところもあるし、パフォーマンス、それもコトバと声によるものという点では似ているが、普通はストレートにはつながらない。あるいは寄席というのは本来こういうものなのかもしれない。うたも落語も同列なのかもしれない。落語にはリズムやメロディは一見無いが、間のとりかたや声の抑揚は無ければ文字どおり噺は始まらない。とすれば、演歌は落語のエッセンスをぎゅっと絞りこんだもので、落語は演歌をある典型的具体的状況のもとに展開したものとも言える。両方続けて体験すると、それぞれがより深く訴える。

 第三部は唖蝉坊を中心とした、明治大正昭和の演歌乱れ撃ち。もちろん、原曲そのままではなく、時に岡さんのオリジナルの歌詞が入る。〈炭坑節〉の後に、この元歌をやったのは面白かった。

 十年、うたい続けて、それもほとんどストリートや流しでうたい続けて、これだけうたえる人は、今ちょっといないのではないか。マイクからはずれてうたっても、声はよく通る。貫禄がついてきたと言ってもいい。その割にステージングがあまり上達していないのは、あるいはこれが岡大介のキャラかもしれない。客の煽りに乗ってしまうのも、ひょっとすると芸人としては失格と言われかねないが、本質的にシャイな若者、年齡とは関係ない永遠の若者が、好きな唄をうたいたい一心でひたすらうたっている潔さをあたしは見る。

 うたにもいろいろあるが、岡さんの唄はコトバで勝負するタイプだ。聞いて歌詞が明瞭にわかることが命。そしてその歌詞で筋の通らないことを笑いとばす。聴く者にカタルシスを与え、元気をもたらす。

 舞台に現れず、袖で叩いて岡さんを支えた打楽器も良かった。

 頭の方で「ぼくがやっているのはうたです、音楽じゃありません」と言い切ったのには一瞬えっと思ったけど、聴いてゆくうちに、納得させられた。このうたは、音楽というよりも落語のような話芸にずっと近いのだ。そして、それはうたというものの本質の一つであろうとも教えられる。ひょっとすると、うたと音楽を同じ範疇に含めるのは、勘違いなのかもしれない。

 すっかり元気をもらって出てみれば、浅草寺はライトアップされていて、まだまだ観光客もたくさん歩いている。半月が鮮やか。(ゆ)