一番好きなうたはアンコールで出た。〈寝顔みせて〉は、なんとか親になることをかろうじてはたしたあたしのような人間にはなんともたまらない名曲だ。子どもというものはとにかく眠ってくれない。目をつむって、すやすや寝息をたてているのを見て、そおっと、ほんとうにそおっと離れようとする。その瞬間、ぱちっと目を開くのだ。いいかげんにねろおっとどなりつけたそうになったことが、何度あったことか。

 中川さんもそういう気になったことが何度もあったにちがいない。それを、こんな美しいイメージにうたいこめるのは、アーティストとしての才能と精進の賜物だろう。それまでにも歌つくりとしての中川さんのエラいことは十分認めていたつもりだったが、初めてこのうたをデモ録音で聴いたときには、尊敬ととそして感謝の念がふつふつと湧いてきたものだ。

 以来、このうたは何度聴いたかわからないが、考えてみると、生で、ライヴで聴いたのは初めてだった。これを聴けただけでも、出かけてきた甲斐があった。

 会場に入ってまず目についたのは、がらんとしたステージだった。奥の壁際にギターが1本。小さな丸いサイド・テーブルにタオルと水。マイクが1本。譜面台。それだけ。簡素なステージは見慣れているはずだが、なぜか、そのミニマルな佇いがひどく雄弁に見えた。演奏中も照明などは何もしない。単純にアーティストを照らしている。ギターを抱えた人がそこにいて、うたっているだけだ。

 まあ、この人はしゃべりもする。うたっているより、おしゃべりしている時間の方が長いかもしれない。数日前、徳島でのライヴの際、腰を痛め、一時は歩くこともできなかったそうだが、それをネタにして笑いをとる。ギターをかき鳴らしても、声をだしても、腰に響くらしい。もうつらくてつらくて、と言いながら、実際、時おり、腰を伸ばしたりしながら、しかし演奏はそれによって影響があるとも見えない。いや、むしろ、腰にトラブルを抱えていることで、演奏が良くなるという影響があるようにも思える。

 うたい、しゃべり、一部だけで1時間半。「いつ、終るんだろうねえ」と言いながら、腰がたいへんと言いながら、立ったままだ。〈満月の夕〉で長い一部はしめくくり。大震災を体験したわけではないのに、このうたは冷静には聴けない。ユニオンでもモノノケでも、あるいは山口洋さんや河村博司さんでも、ライヴでも何度も聴いているが、どうしても他の曲と同じようには聴けない。ひとりでうたううたい手に、やさほーやと声を合わせてしまう。このうたを、ほんとうに焚火を囲みながら合唱する日の来ないことを祈る一方で、満月を見上げながら、当事者としてこのうたをうたうことへのうらやましさもどこかにある。

 二部で最も痛切に響いたのは〈デイドリーム・ビリーバー〉。モンキーズの忌野清志郎によるカヴァーの、そのまたカヴァーだが、もちろん中川さん自身のうたになっている。清志郎はこのうたを亡くなった二人の母、生みの母と育ての母の二人に捧げているが、中川さんがうたうと、「クイーン」は必ずしも母親とかかぎらなくなる。自分を支えてくれている誰か、自分では意識せず、しかしその人がいなければ「夢を見つづける」ことができない存在ならば、誰でもあてはまる。女性とも限るまい。そういう存在への感謝は、できるうちにしておくべきなのだ。清志郎も、おそらく猛烈な後悔の念にさいなまれ、それを解決するためにこのうたをうたったのではないか。中川さんのうたはそういうところまで響いてくる。

 腰がつらかったと言いながら、アンコールはなんと6曲もやる。〈平和に生きる権利〉からの4曲はカヴァーをほとんど途切れずにやる。ジェリィ・ガルシアと同じく、中川さんもまた、演奏をやめたくないとみえる。なんのかんのと言いながら、楽しそうだ。ソロでやることの楽しさを満喫しているようである。バンドでしかできないことはたくさんあるだろう。たとえばの話、東チモールやパレスチナで演奏できたのも、バンドとしての活動があったからだろう。一方で、ソロは自由だ。ライヴをやるにも、カヴァーをするにも、やろうと思うだけでできる。延々と終らずに演奏しつづけることもできる。まあ、グレイトフル・デッドはバンドとして延々と演奏しつづけたが、やはりあれは例外だ。

 見る方からすれば、ソロではうたの生地が顕わになる。一つひとつのうたのキモが眼の前に置かれて、ああこのうたはこういうことだったのか、と賦におちる。それにはMCも助けになる。〈豊饒なる闇〉の印象的な一行「風に散らない花になりたい」の背後の意味。〈あばよ青春の光〉の「光」とは何をさすのか。それによって、あらためてそのうたがより深くカラダに入ってくる。

 そしてライヴでのハプニング。腰の故障は本人にはたいへんなことだが、客からすれば、そういう状態のアーティストの演奏を聴けることは千載一遇のチャンスだ。トラブルによって演奏が良くなることだけではい、悪くなることもまた、ライヴの愉しみだ。愉しみというと語弊があるかもしれないが、一生に一度の体験はやはり貴重だ。ライヴというのは、いつも必ず素晴しい音楽を体験できる、安心安全なものなどでは無い。何が起きるかわからない。演る方にも、聴く方にも、リスクがある。だからライヴは行く価値がある。

 すべてがうまくいって、この世のものとも思えない体験ができることもある。ライヴに行くときはいつもそれを期待してもいる。中川さんも、バンドではそういうライヴができたことが何度かあり、ソロでもそれを目指していると言う。とはいえ、それはひょっとすると、万全の状態ではできるものではないのかもしれない。どこかに不備を抱え、不足があり、故障があり、それを凌いでやるうちに、なにかの拍子にあらゆるものがかちりとはまる。演る人、聴く人の境界が消え、その場がひとつになる。普通はありえないことが起きる。むしろ、すべてが完璧というときには起きないのかもしれない。

 サムズアップはどこに坐ってもステージとの距離が近いのがいい。デヴィッド・リンドレーとか、トニー・マクマナスとか、あるいは先日のアンディ・アーヴァイン&ドーナル・ラニィとか、ソロやデュオ、せいぜいトリオぐらいまでの、それもアコースティックな音楽をここで聴くのは好きだ。中川さんも半年に一度はここでやっている。これまではめぐりあわせが悪くて、ソロを生で見るのは初めてだったが、これからは最優先で来るようにしよう、と思ったことだった。(ゆ)