JungRavie、すなわち野間友貴&浦川裕介と、Dai Komatsu & Tetsuya Yamamoto の、ノルディックとアイリッシュの二組のデュオによるライヴは、それぞれの伝統により深くわけ入って、豊かな成果を汲み出していた。それぞれが見せる風景の美しさもさることながら、ふたつが並ぶことで、単独では見えにくいところが引き出されていた。相違よりも、相通じるところがめだったのは、どちらもフィドル属の楽器とギターのデュオというだけでなく、音楽への姿勢、伝統へのリスペクトの持ち方に、似ているところがあるようだ。
生まれ育ったものではない伝統から直接生まれている音楽を演奏することは、どうしても借りものになる。それはやむをえないと認めた上で、借り方に工夫をこらす。着なれない服をどう着こなすか。カーライルの『衣裳哲学』を持ちだすまでもなく、着る服とその着方に人となりは否応なく現れる。
野間さんはハーディングフェーレ、浦川さんは12弦ギター。まずこのギターがタダモノでない。チューニングはラレラレラレという特異なもので、それに合わせて調整したスウェーデン製。このチューニングはヴェーセンのローゲル・タルロートの考案になり、スウェーデン音楽にギターを合わせる際、最も合わせやすく、また響きが良くなるという。実際、聞える響きはローゲルのものに近い。音の重心が低くなる。実際のライヴで使うのはまだ10回にもならない由だが、使いこまれてどう音が変わってゆくか、追いかけたくなる。
浦川さんが1曲、セリフロイトも鮮やかに吹きこなしたのもよかった。
野間さんは2種類の楽器を弾く。1本は八弦の古い楽器。造られて100年以上経つもので、こういう古い楽器はスウェーデンでもあまり弾く人がなくなっていて、入手できたそうだ。もう1本は現代の十弦のもの。弦の数が多いだけではなく、ネックも長く、胴のサイズも一回り大きい。響きもより華やかだ。
使い分けの基準をどうしているのか、訊き忘れたが、現代の楽器の方が、よりダイナミックなメロディの曲のように聞えた。
それにしても1年の留学の成果は明らかで、同様に1年留学した榎本さんと同じく、何よりもまずノリが違う。それがよく現れたのは、最後のポルスカで、足踏みがまるで違う。均等ではないのに、しっかりビートにのっている。
スウェーデンやノルウェイのダンス・チューンのノリを、その味をそこなわずに再現するのは我々にはかなり難しい。これに比べれば、ジグやリールは単純だ。ノルディックの場合、三拍子といっても均等に拍が刻まれるのではなく、タメやウネリがこれでもかと詰めこまれている。どこでどれくらいタメるか、あるいはウネるかに法則や理屈は無い。実際の演奏に接し、マネして、カラダに叩きこむしかない。こういう時、録音や録画だけでは足らない。音楽は生だ、というのはここのところである。
もっともアイリッシュのビートはより単純とはいえ、タメやウネリはやはりある。表面単純なだけに、それを見分け、聞き分けて、身にとりこんでゆくのは、かえって難しいかもしれない。まあ、どちらもそれなりの難しさがある、ということだろう。
一方でこういう難しさがあってこそ、面白くなるのが、この世の真実というものだ。
打ち込みやロックなどのビートをあたしがつまらないと感じるのは、こうしたタメやウネリが無いためだと思う。というよりも、そうしたものを排除したところで成立しているからだろう。それは余計なものであって、タメやウネリがあってはおそらく困るのだ。
しかしカラダの表面ではなく、深いところで気持ちよくなるには、タメやウネリはやはり必要だと思う。それがあれば、たとえ体は1ミリも動かなくとも、カラダとココロを揺らす音楽の快感は感じられる。
この二組のデュオはそのことをしっかりと摑みとり、実践している。完全に身につけた、とまではいかないかもしれないが、かなりのところまで肉薄している。もっともこういうことで「完全」などはありえないだろう。野間さんの言うとおり、「きりがない」ので、だからこそ楽しいのだ。これで完璧です、などとなったら、そこで終ってしまう。
小松さんと山本さんのライヴは二度目だが、春に比べても、進化深化は歴然としている。月5、6本は定期的にライヴをしているそうで、その精進のおかげだろう。まったく陶然と聞き惚れてしまう。実際に並べて演奏されたらおそらく差は歴然とするだろうが、マーティン・ヘイズ&デニス・カヒルに充分拮抗できる、少なくともそれを望めるところに達していると思う。
山本さんのソロでは、おなじみの曲なのだが、2本の弦を同時に弾く技を駆使して、新鮮な響きを聞かせてくれる。
小松さんが1曲やったヴィオラはやはり面白い。低域だけでなく、フィドルと同じ音域でも、やはり響きが違うことにようやく気がついた。音にふくらみがある。これは多分、楽器のサイズから来るのだろう。
眼をつむれば、ここが東京の一角だということを忘れてしまう。ココロはスカンディナヴィアに、あるいはアイルランドに飛んでいる。
野間さんの話でメウロコだったのは、スウェーデンではローカル言語がそれぞれに立派に生き残っていて、標準語と言えるものが無いということだった。楽器も、ニッケルハルパは東部が中心で、野間さんが行っていた西部のノルウェイ国境に近いほうではニッケルハルパは無く、ハーディングフェーレがメインになる。言語もまた相当に違い、スウェーデン語ということはわかるが、何を言っているのかわからないことも往々にあるらしい。リエナ・ヴィッレマルクは、西部のノルウェイ国境に近いエルヴダーレンの出身で、彼女がうたっているのはその村の言葉であって、相当に特異なものだそうだ。スウェーデン以外では、その言葉がスウェーデンのうたの言葉の「標準」になっているわけだ。
そういえば、同様なことを hatao さんが笛についても言っていたことを、後で思い出した。村ごとに音階も指使いも違うという。
アイリッシュ・ミュージックが世界に広まったのは、スウェーデンに比べれば伝統音楽の「標準語」があったためではないか、というのは面白い。アイルランドでもローカルな音楽はあるし、フルートやコンサティーナのように、楽器のローカル性もあるが、言われてみれば、全体としてはローカル性は薄れる傾向にある。このあたりは地理的な条件や、人間の性格の違いからくるのだろう。スウェーデンの方が、地理的にローカルが分立しやすく、また標準化を避ける心性があるのかもしれない。そういえば、ドイツはフランスやイギリスに比べて、統一政権ができるのがずっと遅かった。アイルランドも統一政権はついにできていないが、標準化を求める傾向はあるようにも見える。
野間さんがやっているのも、かれが留学した、エルヴダーレンから少し南へ下った地域のものが中心だそうだ。それが一番しっくりくるとも言う。となれば、とにかくそれをとことん掘り尽くそうとする他ないだろう。掘りに掘っていったその先にこそ普遍があることは、ヴェーセンやリエナ・ヴィッレマルクの活動をみてもわかる。
異国の伝統音楽を好むようになるのは、自ら望んだことではなく、単に捉まってしまっただけだという想いが近頃ますます強くなるが、その中のあるローカルのスタイルやレパートリィに引き寄せられるのも、自分の意志ではどうにもならぬことなのだ。
この二組のデュオのツアーは今年の春にやってみて感触が良かったので、秋にもやろうということになったそうだ。ぜひ、また来年の春にでもやっていただきたい。それぞれの音楽がどう深まってゆくか、生きている楽しみがまた一つ増えた。(ゆ)
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