アイリッシュ・ミュージックが音楽によるおしゃべりなら、無伴奏ソロ演奏や歌唱は何だろう。

 独り言ではないし、独白でもない。勝手なことをわめき散らすには程遠い。こういう場合よく持ち出される、自分との対話というのとも違うように思う。

 というのも、アイリッシュ・ミュージックの無伴奏の歌唱や演奏では、演奏している、うたっている当人の存在が前面に出てこないのだ。音を出しているのは確かにひとりの個人だが、その人の個性をひしひしと感じる、のとは違う。これが他のジャンルの無伴奏では事情がまた違ってくる。

 クラシックは作曲家の専制が強いが、こと無伴奏になると演奏者の存在が前面に出てくる。この場合には作曲家と演奏者の一対一の対話になる。もともとクラシックでは無伴奏の演奏は珍しい部類だし、無伴奏歌唱はまず無い。このことはそれ自体、観察考察に値する面白い現象ではあるが、それはまた別の機会に讓る。

 ジャズでも無伴奏は少ないが、これはまた演奏者の個性、存在がすべての世界、くだけた言い方をすれば、「俺が、俺が」の世界だから、そこに響いているのは、演奏者の人間そのものだ。

 ポップス、ロックなどでアコギ一本というのはほとんど一つのジャンルといってもいいぐらいだが、これもジャズに準ずるし、他の楽器、ベースやドラムスの無伴奏ソロは、演奏の一部ではあっても、それで1本のライヴをする、1枚アルバムを作るというのは聞いたことがない。

 伝統音楽の世界では、アイリッシュに限らず無伴奏は、そこらじゅうにあるとは言えないまでも、ごく普通に行われる。アイリッシュやスコティッシュのバグパイプやハープは無伴奏が標準だ。伝統音楽のシンガーたるもの、無伴奏でうたって聞かせなければ一人前とは言われない。

 伝統音楽は、クラシックやジャズやロックやポップスのような商品として売るための音楽ではなく、本来はコミュニティの活性剤、潤滑剤、生活必需品であり、おしゃべりの一部、井戸端会議、床屋の政談の類だ。ここは肝心のところだが、アイリッシュ・ミュージックは芸術やグルメではない。日用品、生活雑貨であって、日々の暮しに欠かせないものなのだ。暮しに欠かせないからこそ、伝統として受け継がれてきている。

 もちろん、それに限られるわけではないし、そうでなければならないと誰かが決めているわけではない。もっと自然発生的で、おおいに民主的に動く。ハイランド・パイプのピブロックやアイリッシュのシャン・ノース歌唱のように、芸術として極められるものもある。それに、もともとの伝統継承の場から離れたところでは、また在り方が変わりもする。

 とはいえ、伝統音楽では無伴奏が尋常のことであるのは、やはり生活の場でおこなわれてきたからだろう。生活しながら音楽をするとなると、いつも誰かが傍にいて伴奏をつけてくれるわけにはいかない。

 となると伝統音楽、ここではもう一度アイリッシュ・ミュージックにもどってみれば、無伴奏の演奏、歌唱には演奏者、シンガーの個性というよりも、生活、暮しぶりが顕れる。つまりは生活しているコミュニティ、社会、そして伝統との関わりが出てくる。

 伝統は、なにもどこかの博物館に後生大事に保存されているわけではなく、〇〇保存会が守っているものでもなく、われわれのカラダとココロに刷りこまれている。したがって日々新たな要素が加わり、生生流転している。つまりは伝統音楽の無伴奏歌唱や演奏は、今というその時点での伝統が、演奏者やシンガーを通じて現れている。それが充実した音楽であるのは、演奏者やシンガーの暮しが充実し、その属するコミュニティが生き生きとしているところから生まれる。

 伝統はまた時空をも超えることができる。ここがまた音楽の玄妙なところでもあるが、異なる伝統から生まれている音楽を人は演奏し、うたうことができる。ということは、自分が生まれ育ったわけではない伝統からの音楽の出口になりうる。あるいはこれをして、異なる伝統に憑依されると言ってもいいかもしれない。

 さいとうさんや中村さんの無伴奏の演奏を聴き、見ていると、そのことを実感する。元来まるで縁の無いはずの伝統が、ここに憑依して、音楽として流れでてくる。まことに不思議なことが、目の前で起きている。それは不思議であると同時にまるであたりまえとも感じられる。他ではちょっと味わえない感覚だ。

 録音で聴いて感じたことが、生演奏でも確認できる。あの感覚は錯覚でも勘違いでもなかったと確認できる。これもまた嬉しい。

 そしてその伝統は聴いているこちらにも乗り移ってくるようでもある。アイリッシュ・ミュージックはそのように作用する。演奏される音楽を聴いているというよりも、自分の中にある音楽が目覚め、湧いてくるように感じる。少なくとも、良い演奏を聴くとそう感じる。あるいはそう感じる演奏が良い演奏だと思う。

 この日はまず中村さんがワン・ステージ、ギターとそしてうたも交えて演奏し、後半、さいとうさんが、先日出た《Re:start》を再現する形で演奏した。せっかく二人いるのだからと、最後に二人で演奏したのがまた良かった。互いの演奏が刺戟しあい、反響し、渦巻がより大きく、速く、タイトになってゆく。終ってから、一人でやっていると二人で演りたくなり、二人で演ると一人で演ることがどういうことかまた見えてくると二人が口をそろえていたのも印象的だ。

 あれから二人のソロの録音を繰り返し聴いている。聴いていると心がおちつく。荒らだち騒いでいても鎮まり、澄んでくる。無伴奏ソロはそのようにも作用する。(ゆ)


guitarscape
Hirofumi Nakamura 中村大史
single tempo / TOKYO IRISH COMPANY
2017-03-26



Re:start
さいとう ともこ
Chicola Music Laboratry
2018-03-04