豊田さんのソロ・ファースト《呼吸の巴》は、アイリッシュのフルート録音として類例の無い形、しかもおそろしく質の高いもので、最初に聴いたときには、レヴューを求められていたのだが、言葉を失った。これに対していったい何を言えというのか。本当にすぐれた録音作品を前にしたときにできることは、ただ自我が崩壊したように笑いながら、聴き入ることだけだ。
だから、そのレコ発のライヴには何としても行かねばならない。デッドのイベントは2日後だったが、気兼ねなく音楽に浸れるよう、準備はともかく終わらせた。
前半は録音の再現。CDでは後半を占めるセットの組合せを、録音同様久保慧祐さんのギターとともに演奏してゆく。会場のティアラこうとう小ホールは、先般ハープ・フェスティヴァルが開かれたところで、音は良い。ノーPAでも充分と思われたが、フルートにもケーブルがついていた。もっともケーブルがついているから増幅しているのだろうとわかるぐらいで、初め、照明が暗いときには生音だと思っていたほどだ。
ワン・セット終えるごとに、豊田さんは楽器や手、口をぬぐう。後で聞くと、リハーサルでは休みなしにやろうとしたが、汗で滑ってしまい、コントロールができなくなったので、あえてフルートは休みを入れたそうだ。その代わりにギターは途切れなく、弾きつづけた。
この形の、つまりいくつものセットを連ね、30分以上かけてテンションを積み上げてゆき、そうして初めて到達できる高みを目指す形は、以前にもライヴで体験したことがある。が、今回は演奏の密度がまるで違う。一つひとつの音、フレーズの選択、音の強さと長さ、装飾の付け方の練り上げが次元の異なるほど深い。以前は、聴く方だけでなく、演る方も、最後の突破感をめざしていたところがあった。今回は到達点にいたるその過程の一つひとつのディテールが追い込まれている。ラストの頂点はむしろ当然の結果、というと語弊があるかもしれないが、これだけのことをやれば必然の結果としてこうなるしかない、と納得させられてしまう。とにかく頂上に立って、あたりを見回す快感に期待するのではなく、一歩一歩踏みしめてゆく、その足許の石ころの一個一個の表情を楽しむ。
だから引きこまれる。音楽によって否応なく、ぐいぐいと引きつけられてゆく。世界にはフルートとギターの音しかなくなる。それを聴いているはずの自我も薄れ、消えてゆく。あの時、顔に浮かんでいたのは、阿呆のような笑いだったはずだ。
後半は一転。まずマイキィ・オシェイがフィドルで加わる。CDの前半から、ジグ、リール、スリップ・ジグを演るが、こちらは良い感じにゆるい。音が笑っている。音楽がにこにこしている。あるいはマイキィのフィドルのせいかもしれない。かれのフィドルにはそういうユーモラスな響きがある。こういうゆるさ、笑っている感覚は、アイリッシュに特有にも思える。ブルターニュの音楽もよく笑うが、あちらはもっと溌剌と笑う。アイリッシュはちょっとはにかむように、ふふふと笑う。
4曲目でシンガーが登場。豊田夫人のまりさん。アーティキュレーションといい、アクセントの付け方といい、キャシー・ジョーダンそっくり。しかも間奏が〈Josephin's Waltz〉だから、なおさらダーヴィッシュになる。このワルツは世界中の曲で最も美しいメロディのひとつと思うが、この演奏は、その美しさが輝いていた。豊田さんがそもそもアイリッシュ・ミュージックを笛でやろうと思ったきっかけの曲ということもあるかもしれない。確かにこの曲はアイリッシュだとか、スウェディッシュだとかのローカルな基準は完全に超えている。
驚いたのは6曲目、アルタンが《The Blue Idol》でとりあげた〈Daily Growing〉。これは〈The Trees They Do Grow So High〉のアイルランド版の一つだが、なんと男性側、父親の視点のところを豊田さんがうたう。思いの外、良い声だ。アイルランドのフルート奏者にはシンガーとして優れた人も少なくないが、これは期待できる。
フルート・リサイタルと銘打ちながら、アコーディオンも弾いてしまうあたりはアイリッシュだ。リードの音をずらしているらしく、ちょっと古風な響きだが、それがまた似合っている。コンサティーナをやる人に比べて、アコーディオン奏者が少ないと田中千尋さんがこぼしていたが、これで少しは増えるだろうか。
仕上げはリールにのせての〈Danny Boy〉。ここでのまりさんはアメリカン・ガール。カントリー風味で、この曲のこういう歌い方は結構新鮮だ。
前半は、最初の挨拶の後はひたすら演奏のみでMCは無し。後半はおしゃべりの方が長いように感じられるくらい、しゃべりまくる。そういえば、ティプシプーカもそうだったし、皆さん、結構しゃべるのが好きだなあ。
このライヴの成功の陰の功労者は久保さんかもしれない。前半はもちろん、後半の多彩な曲目でも、終始シュアな演奏で土台を支えていた。その存在を強烈に主張するよりは、空気のような、絶対必要なのに眼には見えないタイプかもしれない。とはいえ、これからどうなってゆくか、実に楽しみだ。デニス・カヒルのように、まったく新たなスタイルを編み出すことも可能だろう。ライヴの裏方のスタッフたちもかれの人脈の人たちだそうで、久保さんがいなかったら、コンサートそのものが成り立たなかったかもしれない。
もうネタになってますよとトシさんには言われたが、しかし生き延びられて嬉しいと、こういうライヴを体験すると実感する。若い頃はあたしも無我夢中で、将来どういうことになるかとか、まるで考えもしなかった。ほんの一握りのマニアの秘かな愉しみであることがずっと続いてゆくのだろうと、ぼんやり思うこともないことはない、という程度。あるいはだからこそだろうか、この年になって、こういう音楽をこういう形で生で聴けるとは、心底ありがたい。アイリッシュ・ミュージックを聴き続けてきてよかったと思う。
まあ、アイリッシュだけではないし、聴き続けてこられたのはおのれの才覚だけでもない。むしろ、否応なく引きずられてきた方が大きくはある。ありがたや、ありがたや。(ゆ)
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