昨日は下北沢B&Bでの「アイリッシュ・バンジョー入門」にお越しいただき、ありがとうございます。正直、想いの外に多数の方が来ていただいたのには驚きもし、歓びもしました。それに熱気、英語でいう enthusiasm の度合いが他の楽器よりも一段と深いと思われました。バンジョーというのは不思議な楽器です。
まず音がでかい。でかいだけでなく、華やかでもあり、どこにいてもそれとわかるし、他の楽器と一緒にやると他を圧倒する。無伴奏で弾いても自立できる。
ところがお山の大将にはなりません。常に、どこにあっても脇役。無伴奏でいても脇役に見えます。派手で華やかに響くのに、主役にならない。なれないのではなく、そもそもそういう可能性がありません。
バンジョーが不可欠の要素であり、おそらく最も密接な関係をもっているブルーグラスであってさえ、バンジョーは主役ではないでしょう。主役はマンドリンであり、フィドルであり、何よりもヴォーカルです。
アイリッシュのバンジョーはブルーグラスのバンジョーとは異なります。姿形も違うし、使われ方も違います。いとこではあるかもしれませんが、住んでいる環境はまったく違う。ところが、中心からはどうやってもはずれるという性格は共通します。
アイリッシュ・ミュージックにおけるバンジョーの歴史は古いです。バゥロンやギターなどよりもずっと古い。伝統の中に確固たる地位を占めていることでは、弦楽器の中ではフィドルに次ぎます。メロディ楽器であることは、撥弦楽器の中でもギターやブズーキとは比較にならないほど「王道」に近くもあります。
にもかかわらず、バンジョーには日陰者の印象がつきまといます。ダブリナーズのバーニー・マッケナによって1960年代に桧舞台に上がりますが、マッケナ自身も含めて、バンジョーにはスーパー・スターがいません。パイプのリアム・オ・フリン、パディ・キーナン、フルートのマット・モロイ、アコーディオンのジャッキィ・デイリー、ギターのミホール・オ・ドーナル、ポール・ブレディ、フィドルのケヴィン・バーク、フランキィ・ゲイヴィン、マーティン・ヘイズあるいはシャロン・シャノンのような、その楽器を代表し、演奏スタイルや地位をがらりと変えてしまうミュージシャンは、バンジョーでは未だ現れていません。
かくいうあたしはと言えば、1998年にジェリィ・オコナーの《Myriad》が出るまで、バンジョーの存在は知っていても音を聴いたことはほとんどありませんでした。いや、聴いてはいたはずです。デ・ダナン初期のメンバーであったチャーリー・ピゴットや Stockton's Wing の Kieran Hanrahan はバンジョーを弾いていました。しかしその音や存在が意識の表面に出てくることはありませんでした。
そういう意味では《Myriad》は衝撃でした。バンジョーはこんなに凄いことがやれるのか。それまでアイリッシュ・ミュージックでは体験したことのないダイナミズム、スピード感、そして華やかさに目眩く想いでした。1998年といえば、ケルティック・タイガーが咆えまくっていた頃で、アイリッシュ・ミュージックも空前の盛り上がりを続けて、すばらしい録音も目白押しに出ていました。その中でも《Myriad》は光り輝いていたようにみえました。これによってアイリッシュ・ミュージックのバンジョーは新たな時代に入った、とも見えました。
もっとも後から思えば伏線はちゃんとあったので、1990年代初めに出た「スーパー・グループ」Four Men And A Dog はカハル・ヘイデンとミック・デイリィの二人のバンジョー奏者を擁し、デイリィと交替するもう一人のジェリィ・オコナーもバンジョーを弾きました。そこではやはりバンジョーのサウンドはアンサンブルの一部として機能していて(これはまたこれで凄いことですが)、目立つことはなかったものの、バンジョーの存在はより切実なものとして、意識化に刷りこまれていたのでしょう。
オコナー、ヘイデン、あるいはソーラスのシェイマス・イーガン、さらにはスコットランドのエイモン・コイン、そして現在 We Banjo 3 を率いるエンダ・スカヒルと、華やかなバンジョーをいやが上にも華やかに演奏するスーパー・プレーヤーの流れがあるように思われます。とはいえ、こういう人たちも、バンジョーといえばこの人と誰もが指折る存在というわけではありません。例えば五弦であればベラ・フレックに相当する存在はアイリッシュ・バンジョーにはどうやらいないのです。
一方で、そういう人たちとは別にもっと地味な曲をよりシンプルに、ほとんどつつましいとまで言えるスタイルで弾く一群のミュージシャンがいます。ということを、あたしは今回の講座のための勉強で学びました。高橋さんに教えてもらったところが大きいのですが、これは大きな収獲でした。というのも、ここにはアイリッシュ・ミュージックの根幹に通じる糸が隠れていたからです。
バンジョーは高橋さんによれば、アイリッシュ・ミュージックには向いていない。音を伸ばせませんし、すべての音を弾いて出さねばなりません。他の楽器の音と混じりにくい。そうした「欠点」によって、アイリッシュ・ミュージックのキモが逆にあぶり出されるのです。音が伸びないことで、メロディの構造がはっきりします。全ての音が明瞭に弾かれますから、装飾音の入れ方やメロディのアレンジもよくわかります。ダンス・チューンを繰り返すごとにミュージシャンがどのようにメロディを変えているか、手にとるようにわかります。そして、バンジョーでアイリッシュ・ミュージックを活き活きと演奏するために必要な呼吸。これは高橋さんが師匠のジョン・カーティから言われたことだそうですが、フルートの息の吹き入れ方、息継ぎのやり方をよく見て、それをバンジョー演奏に組込むようにする。あるいはフィドルで音を伸ばすところをバンジョーでも出そうとしてみる。そうすると、音にアクセントがついてメロディに立体感が生まれ、曲が躍動しはじめます。
もちろんこうしたことはスーパーなバンジョーを展開するミュージシャンたちも押えています。とはいえそれ以上にバンジョーによる伝統音楽表現をより深めようと目指す人たちがいます。たとえば高橋さんの師匠のジョン・カーティであり、高橋さんの友人の Patrick Cummins であり、女性のバンジョー奏者の道を切り開いた Angelina Carberry であり、ピアニストとしての方が有名な Brian McGrath であり、あるいはつい先日すばらしい録音を出した Shane Mulchrone です。
スーパーでなければディープというわけではなく、ディープな人がいつもいつもひたすら地味にシンプルにやっているわけでもないことは当然です。こうした分類は、現在のシーンを外から眺めた場合、こう見ることもできるという一例に過ぎないことは念のため申しそえます。また、各々の傾向は、本人の性格や生まれ育った環境から生まれるところもあり、各自が意識して選びとっている割合はそう大きくはないでしょう。一応はこう分けてみることで、全体の把握がしやすくなる方便です。
ただ、これはなかなか面白い現象ではあって、五弦でも片方にベラ・フレックのような人がいれば、いわば対極には Dirk Powell のような人もいるし、一方で Abigail Washburn のような人も出てくるのを見ると、バンジョーという楽器に備わる性格の現れとも見えます。
さらに言えば、アイリッシュで使われるテナー・バンジョーは、他ではほとんど見ることがありません。フィドルやアコーディオン、フルートなどの笛、そしてバグパイプは広範囲な音楽で多種多様の使われ方をしていますが、バンジョーだけは、他にはディキシーランドをはじめとするニューオーリンズの土着音楽ぐらいです。アメリカで奴隷たちの想像力によって生まれた折衷ないし混血楽器というバンジョーの出自からすれば、アメリカとアイルランドの強い結びつきを示すとも言えそうです。しかし、レパートリィでは共通するものの多いスコットランドにすら、バンジョーが広まっていないのは、この楽器の不思議の一つでもあります。バンジョーでストラスペイをやっても結構カッコいいのではないかと想像したりもしますが。
閑話休題。昨日は、質疑応答でも味のある質問をいただき、話がふくらみました。バンジョーにはそうした深みに誘う力、というと大袈裟かもしれませんが、どこかそうした魅力があるともみえました。
昨日聴いた音源を挙げておきます。
Mike Flanagan (1898-?, Watrerford)
Paddy In London (1942), from Treasure Of My Heart
Barney McKenna of the Dubliners
The Mason's Apron (live), from The New Electric Muse
Gerry O'Connor of Tipperary
The Findhorn Set=Sean Sa Ceo; The Glass Of Beer; The Sailor's Bonnet, from Myriad
Cathal Heyden
The Liverpool Hornpipe/ John Mosai MC Ginleys, from Live In Belfast
John Carty
Steam Packet/ Kiss The Maid Behind The Barrel, from I Will If I Can
Angelina Carberry
Dermot Crogan's Jig/ Hardiman's Fancy, from An Traidisiun Beo
Shane Mulchrone
Cuaichin Ghleann Neifinn (Air), from Solid Ground
いつものことですが、講師の高橋創さんには多くのことを教わり、感謝しています。トシバウロンにもいつもながら達者な司会進行でありがたいことでした。そして会場の本屋B&Bのスタッフの皆さまにも感謝。本屋で飲むビールはなぜか旨いですね。(ゆ)







コメント