文楽を見るのは確か3回目。初めて見たのはもう30年ほど前になる。『女殺し油地獄』だった。クライマックスは油屋の店先で、売物の油の樽が倒されて一面油が流れ、つるっつるに滑るところで、殺そうとする男とヒロインが大立ち回りを演ずる。人形が舞台の端から端まで、ついーーーーと滑るのは衝撃でもあった。生身の人間には絶対にできないことが、人形故可能になる。それを最大限に活かした演目の一つではあろう。

 今回は人形を操る方の名跡、五代目吉田玉助襲名披露公演の昼の部。演し物は『本朝二十四孝』と『義経千本桜』から「道行初音旅」。こちらを選んだのは間に襲名の「口上」が入るから。かつて初めて歌舞伎座に行ったのも片岡仁左衛門襲名披露公演で、この時の「口上」がたいへんに面白かったからだ。歌舞伎に比べると、文楽の口上はあっさりしていて、玉助本人の挨拶も無いのはちょっとあてが外れたが、こういうのはやはり良いものである。

 歌舞伎では襲名といえば役者の名跡だが、文楽では人形遣い、義太夫、三味線に各々名跡があるので、いちいちそう大袈裟にやっていられないのかもしれない。

 昼間を見た理由のもう一つは「道行初音旅」が音楽と謡をメインとしているからでもある。歌舞伎にも音楽と舞をメインとした「娘道成寺」のような演目があるのに相当するのだろう(仁左衛門襲名披露の時の「娘道成寺」は忘れられない)。正面に二段に席が作られ、前の下段に三味線、後ろの上段に義太夫が並び、人形は二体、男女が出て舞うようにからみあう。面白いのは白狐が一匹ちょっと出てくる。これも裃姿で顔を見せる人形師が一人で操る。話の全体像を知らないので、意味がよくわからないが、その仕種はユーモアに満ち、これで舞台がぐっと明るくなり、世界に幅が出るのは確かだ。

 謡も三味線もユニゾンで、みごとに音の合ったユニゾンは声もインストも快感だ。時おり、中心の二人がソロで唄う。静御前と狐忠信各々のセリフらしい。

 歌舞伎でも義太夫と三味線が舞台の袖に出て演ることがあるが、やはり役者があくまでも中心になる。文楽では人形は声を出さないから、義太夫と三味線が人形と同じくらい、場合によってはより重要になる。人形と人形師は顔の表情は変えないが、義太夫は語り手となり、登場人物たちのセリフを声色を変えて演じ分け、泣き笑いわめく。むろん演者にもよるけれど、たいていは正座しながら上半身を大きく動かし、顔の表情もめいっぱい変えて、大熱演する。うっかりすると、そちらを見ている方が面白いし、話もよくわかる。

 三味線がまた耳を惹く。こういうのはいったいどこまでが決まっていて、どこからが即興か、まったくわからないが、大まかには決まっているが、細かいところは任されているんじゃないか。増幅しているようにも見えないし、見ていても、音は絲が弾かれるところから聞えていたが、それにしてはよく響く。小劇場は定数590だけど、謡も三味線もむしろ大きく聞える。

 義太夫と三味線は時々座っているところがくるりと回って、交替する。今回はなぜか義太夫は比較的若い人が多く、三味線は枯れきった感じの老人が多かった。かみさんにも指摘されたが、確かに謡はより体力が要るだろうし、三味線は年をとってもずっと続けられるだろう。

 最初に見たときには、席がこの義太夫と三味線に近く、三味線の細かい音の動きが耳に入ってきて、否応なく目が舞台から三味線に惹きつけられることが多かった。ほとんどブルーズ・ギターのようなフレーズが出たりするのだ。今回は席が遠かったし、話がどんでん返しに継ぐどんでん返しなのと、人形の動きのキレが良くて、楽師の方には目が行かなかった。

 それにしても人形劇は面白い。舞台に登場してくるときは、ほとんどが人形は人形で、それを操る人の顔が目に映る(今回は襲名披露ということもあるのか、黒衣ではなく、顔を出した、つまり名のある人形師が初っ端から出ていた)。それが佳境になると、人形を操る人びとが見えなくなる。人形だけが見えている。眉の上下ぐらいしか動きのない顔が表情を変える、ように見える。そして、生身には不可能なダイナミックな動きや姿勢を見せる。二体、三体の人形がからみあうときには、六人から九人の人間が狭い空間に犇きあうわけだが、そんなことも目に入らない。見えるのは、人形同士のからみあいだけだ。

 今回の発見は脚の面白さだ。脚の形、見せ方によって、ずいぶんいろいろな内容を盛れるらしい。また、それは表象としても作用するようだ。つまり、ある形をとることには固有の意味がある。脚役は人形師にとって最初にやらされて覚えることだそうだ。今回の主役、五代目吉田玉助も、若い頃、脚の動きの見事さでレジェンドだったと口上で述べられていた。

 思わず笑ってしまうユーモアも随所に鏤められ、一瞬で衣裳が変わる早業や仕掛けもあり、そして歌舞伎にも通じるキメのポーズがやはり見せ場の一つだ。これは本来、エンタテインメントなのだ。その点では歌舞伎と同じで、見て楽しい。カタルシスがある。日常世界から断絶してくれる。「道行初音旅」で楽師の裃は全員がピンク色だったのには噴き出した。

 歌舞伎座よりも男性の割合が高い、とかみさんが言う。それも独りで来ている人が多いようだ。料金がずっと安いこともあるのだろうか。生身の人間よりも親しみを感じるのか。ひょっとするとアニメに萌えるのと同じ作用だろうか。今、アニメに萌えている若い男たちは、年をとってまだ文楽が残っていれば、通うようになるのだろうか。話の内容はアニメとそう違っているとも思えない。キャラクターの名前や衣裳、時代設定が多少変わるだけだ。

 しかし、毎度のことながら、若い男がいない。一人だけ見かけたが、20代はもちろん、30代、40代もいない。いるのはおそらく大半が70代だろう。もっとも、平日の真昼間ということもあるかもしれない。夜の部も午後4時開演では、若い人たちは来たくても来れないのかもしれない。しかし、若い女性は結構いる(女は働かなくてもいいからだ、なんていうヤツは無いはずの「セクハラ罪」でタイホしちゃうぞ)。昼は開演11時で終演3時半。途中25分の休憩が入るとはいえ、昼飯をとるのもあわただしい。こういう部分も含めて伝統だといいたいのか。しかし、江戸時代や明治とは、状況は変わってしまっているのだ。「コクーン歌舞伎」のようなものも、文楽には無い。学校廻りをしているらしいが、しかし子どもや若い人たちには、ホンモノをそれにふさわしい場で見せたい。学校の体育館や公民館で見せればいいというものではないはずだ。その意味では、大阪の文楽劇場で一度見たいものではある。

 ちなみに歌舞伎座では目につく外国人も少ないようだ。一人だけ見たが、生活臭があったから観光客ではないだろう。

 帰りはバスが劇場の前に待っていて、東京駅と新宿駅まで各々行く。これはなかなか便利。新宿通りを真直ぐ行くので、三丁目や追分で降りれば何でもある。半蔵門の地下鉄の駅ができるまでは、ここは陸の孤島だったはずで、バスかタクシーか、四谷か赤坂見附から歩くしか無かっただろう。なんでこんなところに造ったのか、不思議ではある。それともそれくらい歩けというのか。(ゆ)