終日建設作業をした後の疲れた筋肉、岩だらけの平原の向こうから低く斜めにさしこんでくる錆色の太陽の光には、どこかひどく滑らかで優美なところがあって、何の前触れもなく、自分は幸福だと感じられたのだ。ちょうどその瞬間、アルカディイがフォボスから呼んできたので、上機嫌で答えた。
 「ちょうど一九四七年のルイ・アームストロングのソロみたいな気分なんだ」
 「どうして一九四七年なんだい」向こうが訊ねる。
 「つまりね、あの年彼は一番幸せそうな音を出してたんだ。一生のうち大体はあの人の音には鋭いエッジが立ってて、ほんとにすばらしいんだけど、でも一九四七年にはもっとすばらしくて、肩の力の抜けた流れるような喜びがあるからなんだよ。あとにも先にも絶対に聞けない音だ」
 「やつにとっちゃいい年だったんだな」
 「そのとおりだよ。とんでもない年だったんだから。二十年もひっどいビッグ・バンドで過ごしてだよ、ホット・ファイヴのような小さなグループにもどったんだ。それって若い頃に自分がリーダーだったバンドだよ。そしたらどうだい、懐かしい曲、懐かしい顔まで何人もいる——しかも何もかも最初のときよりも良くなってるんだよ。録音技術もギャラもお客たちもバンドも自分の能力も・・・若さの泉みたいな感じだったに違いないんだ」
——キム・スタンリー・ロビンスン『レッド・マーズ』上・207頁

 昨日見聞したのは残念ながら1947年のものではない。1955年、1964年、1967年の映像だ。だけど、これらの映像を見、音を聴いて、あらためてこの一節が思い出されたのは、そこに現れるサッチモの姿と音楽があまりにすばらしかったからだ。

 もちろんサッチモの名前と顔は知っている。音楽だって聞いたことはある。これはたぶんあたしだけのことではなく、サッチモの名前と顔の知名度に匹敵するのはビートルズぐらいだろう。サッチモはジャズを大きく踏み越えているのだ。世の「ジャズおやじ」どもがサッチモを気に入らないのは、たぶん、そのためだ。後生大事に抱えこんでいる「ジャズ」など眼中にないようなフリをしているとその眼には映るのだろう。

 それでも昨日は来る客はたぶん爺どもばかりではないかと思ってはいた。その予測は嬉しくも裏切られて、ほとんどがごく若い人びと、女性もたくさんいる。より自在に、自分の感性に忠実に、サッチモの音楽を楽しんでいる。

 いずれ劣らぬ一騎当千のバンド・メンバーに支えられて、サッチモはとにかく明るい。それはあくまでも明るくあろうとする意志と、どこにあっても、どんなところでも、明るくならざるをえない性格とが融合したもののようにみえる。

 一連の映像にライトモチーフがあるとすればそれは〈What A Wonderful World〉だ。1967年、ヴェトナムへ送られる直前の兵士たちにこの歌を唄いかけるサッチモから始まり、ラストはオーストラリアの芸人がこの歌をバックに見せる、両手を使ったみごとというしかない影絵のパフォーマンスまで、この歌はサッチモの遺したものを象徴しているようにみえる。生前この歌はほとんどヒットしなかったそうだ。レコード会社の社長が、この歌のプロデューサーもサッチモの声も曲も大嫌いで、まともなプロモーションをしなかったらしい。ヒットしたのは1985年の映画『グッドモーニング、ヴェトナム』で使われてからという。

 この歌はこの世はすばらしいと朗々と唄いあげる曲ではない。隣に座ったサッチモが、こちらの肩に手をかけて、一語一語打ち込むように、語りかけてくる。今がそういう世界なんだというよりは、本来すばらしい世界なんだから、もう一度そういう世界に造ってゆこうぜという訴えだ。どんなに悲惨な世界でも、これをすばらしい世界にしてゆくんだという意志が、底抜けに明るく、ユーモアたっぷりで、何事にもめげない積極的な性格にまでなっている、その現れだ。

 バンド・メンバーたちの圧倒的な演奏とサッチモの唄が作り出す音楽が、ヨーロッパ各地の、アフリカはガーナの、あるいはニューヨークの聴衆を熱狂させるのは、まったく当然だと思えてくる。これで熱くならないやつは人間じゃねー、とわめきたくなってくる。聴衆だけではない、サッチモのバンドと共演する若きバーンスタインの指揮するニューヨーク・フィルの楽団員たちも、初めはどこか遠慮がちだったのが、サッチモのバンドとやりとりを始めると、がらりと音が変わる。共演できて光栄なのは我々の方ですというバーンスタインの言葉にはその通りだろうと納得する。

 昨日拝見したのは、主にアメリカのテレビ番組用に作られた映像で、フィルムで撮影していたので残っていたものだ。元は16ミリのフィルムで、今はデジタル化して、DVDに収めてある。メインは1955年にサッチモが音楽大使としてヨーロッパに派遣された際にCBSがスタッフを同行させて作り、1957年に放映した1時間強のドキュメンタリーだ。わが国でも『サッチモは世界を廻る』のタイトルで公開されたが、当時はニュース映画専門館で上映された由。

 これは楽しい。アルプスの上、というよりも、その間を飛ぶプロペラ旅客機の中で演奏するサッチモのバンドから始まり、空港での歓迎、ステージの演奏、観客の表情の変化、そして、小さなクラブでの、地元のバンドとの共演と追ってゆく。はじめは気難しい顔をしていた客が、どんどんノっていって、最後は大喝采する。音楽に踊らされる姿は、後にロックのコンサートやクラブで見られるのと同じだ。

 独立前夜のガーナへの「帰郷」では、ヨーロッパと同じく、地元の音楽で迎えられたのに、自分たちの音楽で返礼すれば、それまでジャズなど聞いたこともなかったはずの住民たちが踊りだす。

 いや聞いたこともなかったというのは誇張かもしれない。ガーナは英国の植民地だったから、英国経由あるいは英語圏ということで直接アメリカからレコードなどが入っていただろう。また、当時首相で後に大統領になるエンクルマはじめ、イギリスやアメリカに留学し、そこでジャズに触れていた人間もいたはずだ。しかし、生で、「ホンモノ」を聴くのは初めてという人間が圧倒的大多数ではあったはずだ。そしてその初めての体験がサッチモであったことは、おそらく、その中の少なからぬ人びとにとってラッキーであっただろう。後にアフリカン・ジャズを代表することになるヒュー・マセケラも、サッチモからトランペットを贈られている。

 サッチモのユーモアのセンスが最もよく出たのは1964年東ベルリンでの公演だ。一向に鳴りやまない喝采に対して、閉じたカーテンの間から、まずネクタイをはずして出てきて挨拶し、次には寝間着のガウン姿で出てきて挨拶する。

 これらの映像を蒐集、整理されて、字幕まで添えてあたしらが見られるようにしてくださったのは、外山喜雄氏ご夫妻だ。夫妻はサッチモに惚れこむあまり、1968年、当時最も安かったブラジルへの移民船に同乗してニューオーリンズに渡る。氏はトランペット、夫人はバンジョーをよくするから、現地で音楽演奏の仕事を見つけ、2年、滞在する。その後、日本ルイ・アームストロング協会を設立される。見習いたいとは思うが、あたしなどには到底できないなあ。

 サッチモという人は人間の器が大きかったのだろう。そしてその器の大きさは音楽だけに留まらなかったのだろう。だから、演奏だけ聞いても、おそらくよくわからない。こうして映像を見て、そのふるまい、仕種、そして何よりも、あの笑顔、がま口=サッチェル・マウスすなわちサッチモと言われた大きな口に真白い歯がまぶしく輝くあの笑う顔を見て、初めてその一端に触れることができるのだろう。

 そのサッチモの映像を見せてくださった外山ご夫妻、場所を設営された後藤マスターはじめ「いーぐる」関係者の皆様に、心より感謝する。(ゆ)


レッド・マーズ〈上〉 (創元SF文庫)
キム・スタンリー ロビンスン
東京創元社
1998-08-26



サッチモ・アット・シンフォニー・ホール+11
ルイ・アームストロング
ユニバーサル ミュージック
2017-09-20