うーん、変わったなあ、とまず思った。コクーン歌舞伎は中村勘九郎後の十八世勘三郎と串田和美の組合せから生まれたわけで、勘九郎が勘三郎になって抜けた後は次世代に受け継がれ、今回も勘三郎の次男七之助が主演だ。前回見たのは勘三郎が生きている時で、その息がまだかかっていたのだろう。今回はしかし完全に串田の世界である。以前は思い切り現代化した歌舞伎であったのが、今回は歌舞伎様式の串田劇だ。それはたぶん無理もないので、串田とバランスをとるには勘三郎クラスがいなければならないだろう。
それが悪いわけではない。実際、面白さで言えばこれで4回目のコクーン歌舞伎では最初に見た第3弾『盟三五大切』に並ぶ面白さだった。現代劇としての歌舞伎というこの企画の目標からしても、かなり成功していると思う。象徴しているのは、クライマックスで主人公与三郎の「正体」が明かされ、すべては夢、悪夢であり、すべて忘れて一からやりなおせると告げられた与三がこれを否定する場面だ。どん底の、クソったれの、文字どおり生きながら地獄を経巡るのも同然の人生を送り、今なおお先真っ暗でありながら、それらを帳消しにして「再起動」することを、与三は拒否する。
この場面がまず凄いのは、与三の「正体」が明かされる形が、歌舞伎や浄瑠璃に典型的な、サポート役の死に際の告白であることだ。古典劇を見ていて、それはないだろうとあたしなどはすぐ思ってしまう。それまで市井の平凡な人間のドラマと思っていたものが、実は貴種流離譚で、主人公は特別な存在でしたとやられるのは、ほとんど裏切りとすら感じられる。
演劇の面白みはしかしここにあるので、冷静に読んだらリアリティのカケラも無い話が、役者の演技一つ、その肉体の存在によってリアルそのものになってしまう。今回も中村扇雀の観音久次の説得力は見事だ。ここは全篇のなかで最も「歌舞伎」的で、芝居を見る醍醐味を存分に味わえた。
それに対して七之助の与三は現代劇の様式で応える。古典劇なら主人公は黙ってその運命を受け入れ、貴種として再生、つまりリブートされるにまかせ、めでたしめでたしとなる。そうはしないところがコクーン歌舞伎だ。「嘘だー」と叫ぶ与三は、まさに我々の一人、踏みつけられ、運命に翻弄される平凡な人間の一人として、その運命を拒否する。歌舞伎の様式と対照的な七之助の演技は、磐石の重みをもって迫る扇雀の演技に対抗し、これを押し返す。
運命を拒んでも、与三に未来が開けるわけではない。しかしその拒否は、人として生きるぎりぎりのところから出てきたものであると観る者にはわかる。
芝居としては面白く観ることができたのだが、なぜかかすかながら不満が残った。一つは串田色が強すぎることだろう、たぶん。もう一つはヒロインお富のせいだ。
これは難しい役柄だろうと思う。脚本にするにも、演ずるにも、明確なイメージが摑みにくい。比べれば与三はシンプルだ。変わる必要もない。お富は変わらねばならない。その時々、シーンによって、性格が変わってゆく。同じシーンの中でさえ大きく変化する。梅枝の演技がまずいとも見えなかった。何かあるとすれば演出だ。というよりも歌舞伎側に串田に拮抗できる存在がいないことがここでマイナスに出てしまったのではないか。つまり変わってゆく中に通っているはずの芯が見えなくなっていたのだ。だから、最後に「与三さん、お逃げ」という声の力が不足する。リブートを拒否した愛する人間をもう一度世界に送り出す力が弱いのだ。与三が世界を逃げぬけるにはその押し出しは不足なのだ。
脚本は木ノ下歌舞伎の木ノ下裕一が瀬川如皐の『与話情浮名横櫛』をベースに、講談や落語の「お富与三郎」を加え、創作も入れて構成しなおした、とある。コクーン歌舞伎第11弾『佐倉義民傳』の脚本を書いた鈴木哲也が協力。補綴というよりも、これはオリジナルと言っていいと思うが、こうなると原作も読んでみたくなる。ひたすらダウン・スパイラルな話らしいが。
コクーンは毎回音楽が面白く、今回も Dr. kyOn が手掛け、舞台向かって左端の舞台に近い側に Dr. kyOn のアップライト・ピアノ、その手前にパーカッション、右手舞台側にダブル・ベース、その手前に鳴り物。開演、2回の幕間の終り、そして最後、カーテンコールの後と、メインテーマを演奏する。他に役者のうち3人が裃袴姿でトランペットを奏するシーンが一つあった。ダブル・ベースだけ増幅していたようだ。
ただ、物語が面白くて、劇中の音楽は耳に入らなかった。むしろ、歌舞伎座では舞台右袖でやる、床に置いた板を2本の棒で叩くものは、歌舞伎の様式にしたがい、効果的に使われていた。
セットも工夫がこらされて、作り付けは使わず、いずれも最低限必要な要素を組み立てたシンボリックな仕掛け。どれも車輪がついていて、移動できる。静的なシーンと動的なシーンの入替えがスムーズだし、動的なシーンの流動性はすばらしい。
シアターコクーンはいい劇場、というのは、あたしらの席は作り付けのコンソール卓席に近い、かなり後ろの方だったが、舞台は近く、よく見えるし、声もよく通る。満席の上、立ち見の人もいた。あいかわらず若い男は少ないし、スーツ姿はいないが、歌舞伎座よりは男性の姿が多い気がする。
コクーン歌舞伎はこのところ一年置きだから、次は2020年になるだろうが、歌舞伎側の成長を見届けるためにも、また見たいものではある。もっとも串田の後継者はいるだろうか。(ゆ)
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