イベントのお知らせです。
朝日カルチャーセンターの東京・新宿教室で1回だけのアイリッシュ・ミュージック入門講座をやります。9月8日(土)の夜です。
https://www.asahiculture.jp/shinjuku/course/23bd4144-13a1-acd6-ec5d-5adf1d1846a4
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全体でブリテン諸島の音楽という3回のシリーズになっていて、アイルランドがあたしの担当です。イングランドは宮廷音楽、スコットランドはダンスが中心になるらしい。アイルランドはあたしがやるので、伝統音楽ですね。今回、エンヤとかヴァン・モリソンとかU2とかコアーズとかポーグスとかメアリ・ブラックとかは出てきません。ヴァン・モリソンは入れるかなあ、と考えてはいますが、たぶん入らないんじゃないかな。クラシックも、アイルランド人が大好きなカントリーも無し。
アイリッシュ・ミュージックの真髄、というのを標題に掲げました。この「真髄」とは何か。あたしは「キモ」と呼んでます。まさかね、これが「キモ」ですよと差出せるものなんかあるはずが無い。あったらキモチ悪いです。
そうではなくて、アイリッシュ・ミュージックを聴いていて、背筋にゾゾゾと戦慄が走って、涙腺がゆるんで、同時にわけもなく嬉しくなってくる。わめきだしたいような、でもじっとこの感じを抱きしめたいような、何ともいえない幸福感がじわじわと湧いてくる。呆けた笑いが顔が浮かんでくるのをどうしようもない。そういう一瞬があるものです。もうね、そういう一瞬を体験すると病みつきになっちまうわけですが、そういう時、アイリッシュ・ミュージックのキモに触れているのだ、とあたしには思えるのです。
何よりもスリルを感じるそういう一瞬は、昨日聴きだして、今日ぱっとすぐ味わえるもんじゃない。少なくともあたしはそんなことはありませんでした。その頃は、他に手引きもなく、もちろんネットなんてものもなく、わけもわからず、ただ、どうにも気になってしかたがなくて聴いていた。聴きつづけていると、ある日、ゾゾゾと背筋に戦慄がはしった。今のは何だ、ってんで、また聴く。そうやってだんだん深みにはまっていったわけです。その自分の体験の実例を示せば、ひょっとすると、何かの参考になるかもしれない。少なくとも手掛りのひとつにはなるんじゃないか。
あたしらが聴きだした頃、というのは1970年代半ばですが、その頃は、音源も少ないし、情報もほとんど無いしでワケがわからなかったんですけど、一方で、少しずつ入ってきたから、その都度消化できた。自分の消化能力に見あった接触、吸収が可能でした。アイリッシュ・ミュージックのレコード、当時はもちろんLPですけど、リリースされる数もごく少なかったから、全部買って何度も聴くことができました。ミュージシャンの来日なんて、もうまるで考えられないことで、レコードだけが頼りでしたしね。
今はアイリッシュ・ミュージックだって、いざ入ろうとしてみたら、いきなりどーんとでっかいものが聳えている感じでしょう。音源や映像はいくらでも山のようにあるし、情報も無限で、どれが宝石でどれがガセネタかの見分けもつかない。昔、数少ない仲間内での話で、アイリッシュ・ミュージックのレコードのジャケットと中身の質は反比例する、買うかどうかの判断に迷ったら、ジャケットのダサいやつを買え、というのがありました。半ば冗談、半ば本気でしたけど、今はこういうことすら言えない。
そこでカルチャーセンターでの講座も頼まれるわけですが、だからって、これがキモに触れられる瞬間ですと教えられるものでもない。ここにキモを感じてください、ってのも不可能。だって、アイリッシュ・ミュージックのどこにキモを感じるかは人それぞれ、まったく同じ音楽を聴いても、キモを感じる人もいれば感じない人もいる。
あたしが今回示そうと思ってるのは、つまりはあたしにとってのキモと思えるものの実例です。これまで半世紀近くアイリッシュ・ミュージックを聴いてきて、ああキモに触れたと思えたその代表例をいくつか提示してみます。それは例えばプランクシティのファースト・アルバム冒頭のトラックの、リアム・オ・フリンのパイプが高まる瞬間であったり、ダラク・オ・カハーンの、一見まったく平凡な声が平凡にうたう唄がやたら胸に沁みてくる時であったりするわけです。そういう音源や映像をいくつか聴いたり見たりしていただいて、そのよってきたるところをいくらか説明する。こういう例は何度聴いても当初のスリルが擦りきれることがありません。そこがまたキモのキモたる由縁です。
それと、アイリッシュ・ミュージック全体としてこういうことは言えると考えていることも話せるでしょう。例えば、アイリッシュ・ミュージックというのは生活のための音楽である。庶民の日々の暮しを支えて、いろいろ辛い、苦しいこともあるけれど、なんとか明日も生きていこうという気にさせてくれる、そのための音楽である。
音楽はみなそうだ、と言われればそれまでですが、アイリッシュ・ミュージックはとりわけそういう性格が濃い。それは庶民の、庶民による、庶民のための音楽です。名手、名人はいます。とびぬけたミュージシャンもいます。でも、そういう人たちは特別の存在じゃない。スターではないんです。ある晩、この世のものとも思えない演奏をしていた人も、翌朝会うとなんということはない普通の人です。カネと手間暇をかけて念入りに作られたエンタテインメントでもありません。プロが作る映画やショー、ステージとはまったく別のものです。
一方で、ミュージシャン自身が内部に持っているものの表現でもありません。シンガー・ソング・ライターやパンク・バンド、あるいはヒップホップ、またはジャズ畑の音楽家、クラシックの作曲家といった人たちが生み出す音楽とは、成立ちが異なります。アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたち、シンガーたちも、まず自分が楽しむために演奏したり、唄ったりしますが、自分だけのためにはしません。アイリッシュ・ミュージックの根底には、一緒にやるのが一番楽しい、ということがあります。「一緒にやる」のには、聴くことも含まれます。
アイリッシュ・ミュージックのミュージシャンたちはパブとか誰かの家に集まってセッションと呼ばれる合奏をよくやります。多い時には数十人にもなって、みんなで同じ曲をユニゾンでやるわけですけど、そういう中に楽器をもって演奏するふりをしているだけで、実は全然音を出していない、出せないつまり演奏できない人が混じっていたが、その場の誰もあやしまなかったという話があります。本当かどうか、わかりませんが、そういう話を聞いても、不思議はないね、さもありなん、と思えてしまうのがアイリッシュ・ミュージックです。実際にそういう人がいて、実はその場の他の全員が気がついていても、許してしまう、誰もその人を指さして批難して追い出すなんてことはしない。一緒に楽しんで場を盛り上げている人間が一人増えるんだから、そういう人がいたって全然いいじゃないかと考えるのがアイリッシュ・ミュージックです。
これまでアイリッシュ・ミュージックについて公の場やパーソナルな機会に話して、一番よく訊ねられる質問があります。
「どうしてアイリッシュ・ミュージックを聴くようになったんですか」
なんでそういうことを訊くんだろうとはじめは思いましたが、気がつくと自分でも同じ質問をしたりしてるんですよね。とすれば、これは案外ものごとの急所を突いているのかもしれないと思えてきます。
この質問に正面から答えようとすると回りくどくなるので、今回は簡潔に、あたしはアイリッシュ・ミュージックのこういうところに引っぱられてここまできました、という話にもなるでしょう。
具体的に何を聴いたり見たりするかは、大枠はほぼ固まってますが、細かい点はこれからおいおい考えます。カルチャーセンターは初めてなんで、どんな人が来られるのか、いやその前に、だいたい人が来るのか、楽しみでもあり、コワくもあり。(ゆ)
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