いやあ、めでたい。ようやく出てくれました。ほんとはちゃんと全部読んでからレヴューすべきでしょうが、嬉しくて、とにかく紹介だけしときます。安い本ではないけれど、いやしくもアイルランドに関心があるならば、一家に1冊。せめて、地元の図書館には購入希望を出しましょう。
これまで日本語で読めるアイルランドの通史としては、『アイルランドの風土と歴史』ぐらいしかまともなものは無かった。序章で上野も言うとおり、「イギリス史」の付録でしかなかったわけです。今さら「国別」の歴史かとおっしゃる向きもあるかもしれんけど、国よりも地域として見ればそれなりのまとまりもあるし、なにより把握がしやすい。宮崎市定の言うとおり、志は世界史でも、いっぺんに世界の歴史を書いたり読んだりするわけにもいかんわけで、宮崎が中国という空間の歴史を書いたように、アイルランドという空間の歴史をまずは読みましょう。
それにしてもこれまでアイルランドの通史が出なかったのは、研究者がわが国にほとんどいなかったため、という上野の指摘にはなるほどと思いました。その昔、音楽からアイルランドの歴史に関心が湧いたとき、日本語で読めたのは松尾太郎と堀越智の本ぐらい。文学研究はたくさんあったけれど、歴史の本はとにかく無かった。松尾は経済史、堀越はノーザン・アイルランドが対象で、各々に面白くはあるけれど、全体像や、近代以前の歴史を知りたいと思うと、役に立たない。
上野格と故堀越智の両氏は同い年で、あたしの親父の世代ですが、こういう本を出せるのは感無量ではないかと拝察します。
面白いのは女性の執筆者が多いことで、これほど女性が多いのは、他の歴史の分野でもあんまりないんじゃないか。あたしは大いに言祝ぐことだと思います。こないだ、グレイトフル・デッド関係で Rosie McGee の Dancing with the Dead-A Photographic Memoir をすこぶる面白く読んだんですが、女性から見ると見えることや感じることが男性のものとはやはりまるで違ってくるんですよね。
アイルランドの歴史の場合は女性が進出しているとして、スコットランドの歴史なんて、どうなんでしょう。うーむ、しかしスコットランドやウェールズの歴史をわが国で研究するのはこうしてみるとなかなか大変かもしれませんね。「イギリス史」に呑みこまれちまう。アイルランドは島が別だからまだやりやすいところがある。この「世界歴史大系」のシリーズで『スコットランド史』とか『ウェールズ史』が出るなんて、まずありえない。
それはともかく、近現代ばかりでなく、古代や中世を研究する人が出てきてくれたのは嬉しい。この本で何がありがたいといってあたしとしては第一章と第二章が一番ありがたい。あのややこしい中世の様相をぱっと一望のもとに見せてくれるんじゃないか。とともに、アイルランド語固有名詞の日本語化です。これでとにかく一応の基準ができる。それにしても「ブリアン・ボールヴァ」ですか。そりゃあ、「ブライアン・ボルー」は英語名ですけどね。皆さん、これからは「ブリアン・ボールヴァ」でっせ。
もう一度それはともかく、クロンターフの戦いはヴァイキングと「アイルランド王」ブライアン・ボルーが戦って「外国勢力」を撃退したわけじゃあない、あれは国内対立の延長だとちゃんと書かれていて、あたりまえと言やああたりまえなんだけど、胸がすっきりしました。
蛇足だけど、『アイルランドの風土と歴史』が参考文献に上がっていないのは疑問。そりゃ、学術的には深いものじゃないかもしれんけど、原書の執筆者たちは当時のアイルランド史学界トップの人たちだし、日本語としてはとにかくこれが唯一の頼りという時代が長かったんだから、わが国におけるアイルランドの歴史像形成に一役かっていることは否定できんと思うんですが、どうでしょう。参考文献はそういうもんじゃないと言われればそれまでですが。
一方であたしが訳したテレンス・ブラウンのアイルランド現代文化史が入っていて、もちろんあたしのせいじゃなくて、原書が優れているからですが、日本語ネイティヴのアイルランド史研究にあたしも僅かながら貢献できたかと思うと、ちょっぴり嬉しい。
それにしても、政治・経済中心で、文化史、社会史の視点がほとんど無いらしいのはねえ。補説で少し補われているとはいうものの、うーん、ちょっとなあ。これまた、そういう研究をしている人がいない、または適当な執筆者がいないのかもしれませんし、スペースの余裕が無いのもあるんでしょうけどね。音楽を歴史の文脈で研究するのが難しいのもわかります。とはいえ、ハープが国の紋章になるくらいなんだから、補説の一つぐらいはあててもよかったんじゃないですかねえ。それこそハープが国の紋章になるのはどういう経緯で、なぜなのか、とかね。
なにはともあれ、これで土台が据えられました。アイルランドの歴史の各分野の研究がこの上にどんどんと積み上げられてゆくことを期待します。そして、同僚向けの学術論文ばかりじゃなくて、あたしらのような素人も楽しく読めるような、そう、中国史の宮崎市定のような本がたくさん出ますように。
なぜアイルランドかと問うことで見えてくることがある、という序章での上野の指摘はその通りでしょう。アイルランドから見たブリテン、ヨーロッパ、北米やオーストラリア・ニュージーランド、あるいは世界の歴史を読みたい。それも日本語で書かれたものが読みたい。アイルランドはユニークな地位を占めると思います。小さいが故に、ヨーロッパの北西の端という辺境の位置の故に、中心では見えず、かつ本質を貫くような視点を持てる。ここを出発点として、日本語ネイティヴによるアイルランドの歴史研究が大きく花開きますように。(ゆ)
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