今月末、プレミアム・フライデーの29日夜の、アナログでアイリッシュ・ミュージックを聴くイベント「アイルランド音楽レコード“いい音”聴き語り」用に選んだのは以下のアルバムです。アーティストの五十音順。星印 * を付けたのはあたしの知るかぎり、CD化されていないもの。
*Capercaillie, Cascade
Christy Moore, Whatever Tickles Your Fancy
*De Danann, Selected Jigs Reels & Songs
Dolores Keane & John Faulkner, Broken Hearted I'll Wander
Dolores Keane, There Was A Maid
*Irlande 1: Heritage gaelique et traditions du Connemara, Ocora
*Joe Holmes & Len Graham, Chaste Muses, Bards And Sages
Kevin Burke & Micheal O Domhbaill, Promnade
Leo Rowsome, Ri Na bPiobairi (The King Of The Pipers)
Mairead Ni Mhaonaigh & Frankie Kennedy, Ceal Auaidh
Micho Russell, Traditional Country Music Of County Clare
*Na Cassaidigh, Fead An Iolair
Paul Brady, Welcome Here Kind Stranger
Planxty
The Bothy Band, Old Hag You Have Killed Me
The Chieftains, Live!
これを全部かける時間はたぶん無いので、この中から選んで聴くことになるでしょう。
プランクシティとかボシィ・バンドとかポール・ブレディとか、マレードとフランキィとか、基本の「き」で、CDでも配信でもネットでも聴けるものもありますが、あえてアナログで聴きます。なぜか。
CDなどのデジタルで聴けるものをわざわざアナログで聴く必要は無い、とあたしも思ってました。ミュージシャンは Apple Music でそれも iPhone のスピーカーで聴いたりしていて、それもまあ当然だろうと思ってもいました。レーザーターンテーブルで古いアナログ盤を聴いてみて、引っくり返ったのはまずそこのところです。何が違うのか。
音楽が訴える力が違う。
録音というテクノロジーの最大の恩恵はタイムマシンが手に入ることです。時間を超えて遡ることができる。録音された当時の音楽、演奏が聴けるのです。死んでしまって、今はもう生では聴けない人の演奏も聴けます。
たとえばプランクシティのファースト。メンバーは当時30歳前後。アイリッシュ・ミュージックの新たなスタイルを摑んだばかりで、意気軒昂、まさに龍の天に昇ろうと地を蹴ったところ。この演奏を70代も後半になった今のメンバーに演れといってもそれは無理というもの。それにリアム・オ・フリンは亡くなってしまいました。けれどもこのレコードに針を落とせば、じゃなかった、レーザーを当てれば、半世紀近く前の溌剌とした演奏が蘇ります。
アナログで聴くと、単に音だけではない、その溌剌とした、これだ!というものを摑んだ歓びにはちきれんばかりの輝きがびんびんと伝わってきます。
デジタルではそれは聴けないのか、と問われれば、残念ながら、と今は答えざるをえない。将来、デジタルでもアナログのこの感覚に匹敵するものを伝えられるようになる可能性はあります。凌駕さえできるかもしれない。
人間の感覚器官、耳や舌や鼻や皮膚や眼は、デジタル情報を受取るようにはできていません。われわれが受取るのはあくまでアナログ情報なのです。だから、音源がデジタル・データであっても、一度音波というアナログに変換しなければ、音楽としては聞えない。アナログ盤には音溝という物理的情報の形で音楽が記録されています。アナログ盤による音楽再生に、デジタルでは感じられないものが感じられるのはこのせいでしょう。
体内にチップやセンサーを埋めこんだりして、デジタル情報を直接受取れるようになれば、おそらく話は変わってきます。大昔の映画『バーバレラ』や、フレデリック・ポールの短篇「デイ・ミリオン」の世界ですね。そこではセックスさえもが、実際には肉体を触れあうことなく、しかも肉体の直接接触を遙かに凌駕する快楽として体験されてます。しかし、そういう時代はまだ当分来そうにありません。それまではデジタルはアナログにかなわない。デジタルによって生まれるリアリティは飽くまでもヴァーチャル・リアリティなのでしょう。
たいていの場合には、それで用は足りてます。いや、デジタル化の恩恵は、デジタル化に伴うそうした「不便」を補って余りあります。あたしのライブラリに入っている音源は、アルバム・タイトルにして1万を超えてますが、掌に乗るサイズのハード・ディスクに収まってます。あの曲は誰が演っていたか、なんてのは、1秒もかからずに検索結果が出てきます。アナログ盤しか無い時代にそれをやろうとすれば、全部カードに録っておかねばなりませんでした。いつでもどこでも聴くこともできます。各々地球の反対側にいるミュージシャンがリアルタイムで共演することもできます。
普段はそれでいいとして、録音された音楽の真の姿を確認することも時には必要です。いや、必要なんてのは本末転倒で、これを体験すると、また聴きたくなります。デジタルではついぞ体験できない輝きを、エネルギーを感じたくなります。針を使っても可能でしょうが、レーザーターンテーブルはさらに真の姿に迫ることができます。先日も書いたように、音溝の使われていない部分にレーザーを当てて再生することから、レコードがプレスされた当時の音を聴くことができるからです。
加えて今回はもう一つ、タグチ・スピーカーの最新作 F-613 を使います。
タグチ・スピーカーは田口和典さんが作られているスピーカーで、その性能は知る人ぞ知るもの。とにかく自然で、これで聴くと録音された音楽を再生しているのではなくて、ミュージシャンがそこにいて演奏していると聞えます。あたしがグレイトフル・デッドのイベントをさせてもらっている下北沢の風知空知にはタグチ・スピーカーが備えられていて、家ではヘッドフォンでも聴いたことのない細部まできれいに聞えて、毎回感激します。しかも誇張とかまるで無い。
その音の良さから、公共施設にも多数導入されていて、たぶん一番有名なのはブルーノート東京や衆議院本会議場でしょう。
風知空知のはPA用ではなくて、家庭でも使えると思いますが、F-613 はそのモデルの進化形で最新版。あたしもまだ聴いたことがないので、たいへん楽しみ。
デジタル化されていないアナログ盤ももちろんたくさんあるわけです。音楽がつまらないとか、録音が悪いとかでデジタル化されていないわけではないものも、たくさんあります。権利を買った人間が握り潰してるなんてのは論外ですが、当初の契約の不備でミュージシャンに権利が無かったり、レコード会社の栄枯盛衰のうちに権利が宙に浮いてしまったり、あるいはマスターテープが行方不明なんてのもよくある話です。デ・ダナンの初期やダーヴィッシュの Brian McDonagh がかつて組んでいた Oisin の諸作はデジタル化が待たれる筆頭ですが、他にも宝石はあります。ドニゴール(ダニゴル、の方が近いらしいですね)はグィドーアの家族バンド Na Cassaidigh のセカンドは、今回そういえばと聴いてみて、あらためて感嘆しました。
つまり、CDなどで聴きなれた音楽でも、アナログで、レーザーターンテーブルで聴くと、また全然違いますよ、という話です。あたし自身、病みつきになりかけていて、できればアナログでアイリッシュだけでなく、スコティッシュやイングリッシュやウェルシュやブルターニュや、あるいはハンガリー(Kolinda のあの衝撃の最初の2枚!)なんかも聴いてみたい。ので、これを皮切りにこういうイベントを重ねたいと思ってます。
ということで、今月のプレミアム・フライデーには、秋葉原へどうぞ。(ゆ)
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