滔々と音楽が流れでてくる。リアム・オブライエンの巨きな体に集められた音楽が、片方の腿の上に置かれた小さなコンサティーナから噴き出し、際限もなく、溢れつづける。音楽は空間を満たし、こちらを包みこみ、内側に入りこんでくる。耳からだけではない、全身の毛穴からも沁みこんでくる。音楽を聴くのではない。音楽に流されている。どこへ。わからない。わからないが、そんなことはもうどうでもよろしい。この流されているのがどこか、それもどうでもよろしい。眼を開けば、そこは夏の夕陽が右手のステンドグラスを照らしている教会だ。高い穹窿に向かって伸びる細長い窓に嵌めこまれたステンドグラス。正面には聖堂の形をしたオルガン。その前に人の姿。Tシャツ、短パンの巨体と、スーツにネクタイを締めた細身に見える影。そこから溢れる音楽が背の高い空間を、異郷に変えてゆく。異なる伝統が脈々と生き続ける異郷。その伝統は途方もなく巨きく、深く、果てなどあるとも思えない。オブライエンの体もそれに比べればけし粒でしかない、巨大で豊饒な伝統の厖大な水圧が、オブライエンという存在にかかって、その体の先端につけられた蛇口から、音楽となってあふれつづける。音楽は伝統を呼び出し、伝統は音楽を糧として空間を変え、変容した空間が圧力を増す。音楽と伝統がたがいに入れ替わりながら循環する。こちらはその循環に組みこまれ、体の中を音楽が流れつづける。音楽は次第にわが存在を満たしてゆき、自我は音楽に溶け込み、広がってゆく。
伝統が人の形をとってそこにいる。その人の形からあふれてくる音楽は伝統そのものだ。たまたま音楽として世に顕現した伝統だ。
これに近い体験をしたのは、ジョンジョンフェスティバルに同行してカナダのケルティック・カラーズに行った時だった。地元の若い女性のフィドラーが次から次へと曲を繰り出し、延々と続けていった、あの姿だ。
その伝統は、少数のエリートが伝えてきた、あるいは伝えているものではない。無数の庶民が、それぞれにふさわしく参加し、歓びとして味わい、その中に没頭してくることで伝わってきたものだ。伝えようとして伝わるものではなく、伝統自身、音楽自身によって伝わってきた。それを歓びとする人間が次々に現れることで結果として伝わってきた。伝統とは本来そういうものだ。
選ばれた人間が担い、伝える伝統もあるだろうが、それとても、担う人間が担うことを歓びとし、楽しまなければ、生きつづけることはできない。
リアム・オブライエンも、ことコンサティーナに関しては文字通りの巨人と呼んでかまうまい。この楽器の名手は他にもいるし、楽器そのものの在り方を根底から変えるような活動をしている人もいる。とはいうものの、コンサティーナ、ここではアングロ・コンサティーナ演奏の中軸に、おそらくオブライエンは位置しようとしている。
高橋さんによれば、オブライエンの出身地のミルタウン・モルベイは、装飾音を多用し、踊るためというよりは、聴くための演奏を好むという。その装飾音は指の動きと蛇腹を自在に細かく操ることで生んでいるらしい。体のサイズとの対比から錯覚しているかもしれないが、楽器を奏でているというよりも、体の一部を動かしているようでもある。
はっと我に返ったのは Planxty Davies だった。高橋さんがギターでメロディを唄っている。滔々と流れる大河の面を、燕が一羽飛びぬけて、あとに澄みわたった帯を残したようだった。
いつになく、ミュージシャンたちがお客さんとして来ていた。長尾、榎本、長濱、北川の諸氏はわかったが、楽器を持っていた人も数人いたし、音楽をやっている雰囲気をまとった人が多かった。これも高橋さんの人徳だろうか。かれのためならば、一肌脱ごうという気にさせるものを、かれは持っているようにも思える。一見不器用そうではあるし、MCも滑らかとはいえず、的をはずしていると聞える。しかしその裏、1枚皮をめくってみると、表面とは裏腹に、人を動かす、あるいは人が思わず動いてしまうような力の源が備わっているようだ。先日の tricolor BIGBAND でも、一人だけサングラスをかけて、浮いていると見えるのだが、その浮き具合が妙に全体の中にはまっていた。
ギターの師匠は城田じゅんじさんとのことだが、演奏のスタイルは対極的に聞える。目指すところは同じでも、そこへ向かう出発点が対極にあるようだ。当然、アプローチも対照的になる。福江さんとのデュオ、マイキィ・オゥシェイとのデュオのライヴで、もう少しじっくり聴いてみたい。
日曜日の哺下、アイルランドの音楽伝統の分厚さと豊饒にたっぷりと浸れて、その豊饒さを分け与えられた気分。もちろんアイルランドにこの伝統が生きているのは、それだけの犠牲を払っているからではある。われわれはその犠牲無しに、豊饒さの分け前をもらっている。とすれば、いただいたもののおすそ分けをどんどんとするのが筋であろう。
まずは、リアム・オブライエン、高橋さんと関係者の方々、そして会場を提供された教会とその関係者の方々に感謝する。(ゆ)
コメント