『三國無雙瓢箪久(さんごくむそうひさごのめでたや)』は古典を補綴復活した通し狂言。太閤記のうち、本能寺から大徳寺法要までの秀吉の三段跳びを描くが、合戦とか交渉とかなどは一切出てこない、のが歌舞伎なのだろう。つまり、集団劇ではなく、あくまでも個人と個人のからみあいで描く。歌舞伎だけでなく、舞台というのはそういうものか。ステージの上で大規模戦闘シーンなど、できようはずもないわいなあ。一方、歌舞伎は役者の肉体のもつ表現力を徹底的に引き出し、利用して、そこに特別の空間を作り、カタルシスを産む。見栄はそのための最も効果的かつ特徴的な手法ではある。こちらはこちらで、テレビや映画では不可能だ。どんな映像でも、生身の存在から発するカリスマにはかなわない。

 さてもさても、だ。歌舞伎の筋や設定に論理とかリアリティを求めてはいけない、と歌舞伎指南書にはあるが、あたしなどはどうしてもそういうものを引きずってしまう。あんまりだー、と心中叫んでしまうのだ。だってさあ、藤吉郎が奴つまり奴隷となっていた松下嘉兵衛の娘とできて、子どもまで孕ませておいて出奔、娘も後を追って出奔、しかしめぐりあえず放浪の途中で生みおとしたその息子が行方不知となる。娘は備中高松の陣中で秀吉となった藤吉郎と再会、一方、赤子の方は明智光秀の妻に拾われて、嗣子として育てられる。山崎の合戦の後、隠棲していた嘉兵衛の家にいろいろ偶然が重なって全員が集まって、実の親子の再会も束の間、重次郎と呼ばれていたその息子は養父の後を追って自刃。これってあんまりでないかい。しかも、そのドラマが第二幕で延々と繰り広げられる。

 歌舞伎は筋ではない、むしろ絵、一つひとつの場面において存在感あふれる人間が作り出すイマージュなのだ。それも、声と動きも伴う動と、見栄に代表される静との組合せから生まれる、ある感情を運ぶイマージュだ。筋はその組合せにひとつの流れを作り、スムーズに転換してゆくためにあるので、それ自体の合理性はむしろ邪魔なのだ。と頭では一応理解している。つもりではあるものの、なのだ。

 展開されるストーリーに、一定の合理性、ストーリーそのものの中だけでもいい、最低限の合理性が無いと、どうしてもシラけてしまう。おまけに子役のスタイル。大人同様、子役にもいくつか演技のパターンがあるらしく、今回は型にはまった、甲高い声で、音を延ばし、あえて不自然に単調に科白を発声するスタイルで、伝統のものではあるのだろうし、これをこういうところで使うにはそれなりの理由もあるかもしれないが、やはりどうにもシラけてしまう。

 まあ、歌舞伎を見る功徳の一つは、そうした、近代以降の、合理性を全ての土台に置こうとする姿勢へのいわばアンチテーゼ、と言ってはまた近代にひきずられるが、あるいは合理性とは対極にあって、やはり人間をつくっている土台を、1個のイマージュとして与えられることにあるのだろう。そもそも土台は他にもある、合理性だけではないことは、サイエンス・フィクションやファンタジィによって教えられたことでははなかったか。しかし、歌舞伎の非合理性は、「合理に非ず」とも言えない、もっとまったく別の、合理、不合理、非合理とは異なる性質のものにおもえる。しかもそれは、西欧近代のような舶来ものではなく、我が身の内に感得されるものでもある。自分がその中で生まれ育った文化から出てきている。つまりはシラけると言いながら、その実、結構楽しんで、面白く見ているからだ。ただ、その面白さ、楽しさが、たとえばいい映画を見るとか、傑作小説を読むとかで味わう面白さ、楽しさとは、相当に異なる。

 これがどういう面白さ、楽しさなのかは、まだよくわからない。しかし、退屈でどうしようもない、とか、二度と見ようとは思わない、とかいう反応が、自分の中で皆無であることだけは確かだ。誘われれば、いそいそと同行する。歌舞伎ではすべてが型にはまっていて、各々の型が一定の意味ないし役割を持つ。そういう意味や役割や含蓄がまだわからないのだろう。たとえば、どういうところで見栄を決めるか、なぜ、ここで見栄が入るのか、よくわからない。だから、時に不意をつかれてつんのめる。そうしたものは、本で読んだりして知ることができる部分もあるが、核心のところは実際の舞台を見てゆくうちに沁みこんでくるはずだ。これはライヴやコンサートなどでも同じだ。どんなものであれ、表現はすべからく、受けとる側にもそれなりの訓練を必要とする。生のパフォーマンスだけでなく、録音を聴いたり、本を読んだりすることにも訓練は必要だ。

 だから、あたしなどはまだまだ表面的なパフォーマンスを見ているだけだろうが、印象に残ったのは光秀と左馬助の一人二役の獅童と、第二幕で松下嘉兵衛の老妻を演じた東蔵のふたり。老女の役は難しかろうと素人眼にも思えるが、東蔵はみごとに老女に化けてみせた。ことに二幕三場の「松下嘉兵衛住家の場」。いい演技だと感心するのをすっかり忘れるほどだ。獅童は、動きのキレ、よく通る声と明晰な発音、見栄を切るときの存在感、どれも良く、調子が今一つな主役の海老蔵を完全に喰っていた。パンクの入った、まだまだ無尽蔵のエネルギーを秘めているような、しかし危うい、ひとつ間違えば、歌舞伎なんぞにぷいと背を向けてしまいそうな、ああいう存在はあたしの好みではある。

 もう一つ、面白かったのは二幕一場の最後で秀吉が重次郎のお守り袋を拾う場面。ここは科白が一切無く、ただ7、8人の人物が全員スローモーションで動き回り、絡み合う。一種の舞いと呼ぶべきだろうが、すばらしく幻想的で、異界の場に引き込まれる。

 今回は2階東の桟敷。前回の直下になり、花道は出るところから全て見えるし、舞台も上から見下ろす形で、舞台床に照明で描かれる模様もよく見える。前回のように、舞台の上手3分の1が見えないなんてこともない。舞台裏、大道具の裏の仕掛けも見えてしまうが、それはもちろんご愛嬌。ここはなかなかいい。テーブルがあるので、弁当を買って持ち込む。足回りも余裕がある。

 海老蔵の親子出演で、客席はほぼ満席。それにしても、わが国の文化は女性が支えている、と客席を見渡すと思えてくる。学生風から、手を引かれてかろうじて歩いている人まで、彼女たちが切符を買い、毎月通ってくれるおかげで歌舞伎も続けられるのだ。

 今回は昼が15時終演、夜は16時半開演なので、余裕がある。が、それにしても、出入口と地下鉄につながる昇降口は設計ミスだ。(ゆ)