Thousands of Flowers
須貝知世
TOKYO IRISH COMPANY
2018-09-02


 聴いて即気に入り、ずっとそればかり聴いていると、やがて飽きてしまい、ある日ぱたりと聴かなくなる。そういうアルバムはわかっていながら、聴くのをやめられない。というのをラズウェル細木が『ときめきJazzタイム』で書いていた。その反対に、初めはいいのか、悪いのか、よくわからず、しかし気になって繰り返し聴くうちにだんだん良くなってゆき、ついには定期的に舐めるように聴くようになる録音もある。いわゆるするめ盤だ。あたしにとってこれの典型はヴァン・モリソンの《Veedon Fleece》であり、ペンタングルの諸作だ。どちらも自力では良さがわからず、それぞれに友人が惚れこんでいるのを知ってあらためて聴きだした。しかし、自分にとってもかけがえのないものになるまでは、時間がかかった。

 須貝さんのこのソロも、初め聴いたときには、よくわからなかった。悪いものであるはずがない、という想いはあった。実際手応えは充分以上だった。ただ、ではどこがどう良いのか、と問われると、さっぱりわからない。衆に優れたものかどうかもわからない。

 一つにはフルートの演奏の良し悪しの判断があたしには難しいことがある。フルートは他の楽器に比べると、巧いのか下手なのか、よくわからない。というよりも、みんな、ひどく巧いように聞える。

 須貝さんも巧い。むしろ、これが標準で、だからどうした、てなものである。巧い他に何があるのか。何が彼女を多数の優れたフルート吹きから際立たせているのか。それが摑めない。

 そこでとにかく毎日一度聴きだした。いろいろなもので聴く。DAPにイヤフォンを挿し、歩きながら聴く。Poly+Mojo から音友の真空管ハーモナイザー経由でデスクトップのヘッドフォン・アンプにつなぎ、STAX のヘッドフォンで聴く。手持ちのヘッドフォンやイヤフォンをとっかえひっかえしながら聴く。

 繰り返し聴き、ときにはサポートの方に耳を向けてもみる。すると、靄がかかってぼんやりしていたものが、だんだん晴れてくる。右側のアニーのギターがだんだんはっきりしてくる。左で梅田さんのハープが何をやっているのか、少しずつ見えてくる。この録音はサポートの二人の音量が抑えられていて、それはもちろん主役のフルートを際立たせるためだろうが、それにしても抑制が効きすぎて、時には[07]後半のバンジョーのように、いるのかいないのか、よくわからないものさえある。そりゃ、バンジョーが鳴っていて、ユニゾンでメロディを弾いているのはわかるが、それ以上細かいところはわからない。

 須貝さんはすでに na ba na の《はじまりの花》があるし、Toyota Ceili Band のメンバーとして録音にも参加している。とはいえ、後者ではアンサンブルの一員として個別の音はまったくわからない。前者でも3人の絡みは複雑精妙で、個々の個性よりも、ユニットとしてのサウンドが聞える。それらには無い、このソロでの特徴は何だろう。

 一つこれかなと思えてきたのは、低域と高域の往復が頻繁で、その切替えが鮮やかなことだ。典型的なのは[06]のジグ。前半のトラディショナルでも低い音からぱっと高い音にジャンプするのが快感だ。後半の自作曲ではAパートでやはり低域から高域へメロディが駆けあがるが、Bパートではずっと高いところで終始する。フルートで高域がこれだけ綺麗に聴けるのは、聴いた覚えがない。

 フルートはどちらかというと音域が低い、少なくともそう聞える楽器だ。ホィッスルと比べてみれば、一聴瞭然だろう。そしてその低域から中域へかけての音をいかに膨らませるかが、演奏者としての快感を決めているように思える。フルート吹きは高域に音が行かない曲を好むらしい。

 須貝さんは高域を恐れない、と見えるほどに高い音を綺麗に出す。低域から駆け上がって、一瞬高く飛んでまた低く潜るのも得意らしい。

 そしてサポートの二人も、そこを把握し、押し出すような演奏をしている。ギターとピアノは終始、低域だ。ビートを刻んで煽ることは一切しない。むしろ音を置きながら、後からついてゆく。ハープは右手でユニゾンをするが、左手のベースがよく効いている。そして、左手の方がわずかながら音量が大きく聞える。

 アイリッシュ・フルートの伝統的範疇からはみ出ているように見えるのは選曲にもよる。例えば[03]のホーンパイプからストラスペイにつなぐところ。最近ではスコットランドでも優れたフルート奏者が出ているし、アイルランド出身でも多彩な曲をとりあげる Nuala Kennedy もいるけれど、フルートでストラスペイを演奏するのは、あまり聴いたことがない。アイルランド人はまずやらない。ストラスペイをフルートで演るのはまず息継ぎが難しそうだ。スコッチ・スナップと呼ばれる独特のビートをフルートで出すのは至難の技だろう。須貝さんもそこは明瞭でない。とはいえ、ホーンパイプからストラスペイをはさんでリールという組合せは、フルートという条件を引いても新鮮だ。

 ご母堂に捧げた〈母の子守唄〉も、シンプルで美しい。これをマイケル・ルーニィの曲と組み合わせたセンスは見事だ。これも原曲はハープのためのもので、必ずしもフルート向きとはいえまい。

 初め、よくわからなかったのは、これがするすると聴けてしまうからでもあった。ことさらに難易度の高くない、少し精進すれば、これくらいは誰でも吹けるだろうと思われる曲を、技をひけらかすでもなく、思い入れたっぷりにでもなく、ごく普通のことをごく普通にやりました、という態度で提示してみせる。それにみごとに騙されたのだった。

 そうでない、というわけではおそらくないだろう。須貝さんとしては、特別なことを気合いを入れてやりましたというわけでは、おそらくない。ふだんからこういう曲をこういう風に演奏しているのだろう。そうでなければ、ここまで一見無造作に、何の抵抗もなくさらりと聴けてしまえるようには演奏できないはずである。

 とはいうものの、こうして繰り返し聴き込んでゆくと、かなり掟破りなことに挑戦し、難易度C以上の技を連発し、いわばフルートの楽器としての限界を押し広げようとしているのではないかと思われてくる。

 難しいことを気合いも入れずさらりとやってしまうのは、やはりたいへんなことである。もう一度しかし、難しいことをやることが音楽家の目的なのでもおそらく無い。いかに気持ちよくフルートを吹くか。まずそれが第一であり、第二であろう。そして三、四はなくて、ずっと離れて、聴く人にも気持ちよい想いを抱いてもらうことが来よう。難しいことを乗り越えるのはそれに付随している副産物にすぎない。

 ここにいたってようやくこの録音の凄さの片鱗が見えたような気がする。来月下旬に予定されているレコ発のライヴを見れば、また別の面が現れるのではないか、と期待する。ひと月ばかり、ほぼ毎日聴いてきてまったく飽きない。おそらくは、やがてぱたりと聴かなくなる類ではなく、折りに触れては聞き返す、するめ盤になるだろう。(ゆ)

[Musicians]
須貝知世: flute
中村大史: guitar, piano, mandolin, banjo
梅田千晶: harp

[Tracks]
01. Deer's March 5:13
01a. The Deer's March
01b. Cuz Teahan's {Cuz Teahan}
02. Bluebells Are Blooming 3:50
02a. Cape Breton
02b. Bluebells Are Blooming ​{Michael Dwyer} (​Jigs)
03. The Caucus 4:52
03a. Eleanor Neary's {Eleanor Neary} (Hornpipe)
03b. Jimmy Lyon's (Strathspey)
03c. The Caucus (Reel)
04. Dawn Chorus 3:31
04a. Brennan's
04b. The Dawn Chorus ​{Charlie Lennon} (​Jigs)
05. Mother's Lullaby 5:58
05a. Mother's Lullaby {須貝知世}
05b. I gCuimhne Feilim {Michael Rooney}
06. Bird's Tiara 3:50
06a. Gan Ainm
06b. Bird's Tiara {須貝知世} (Jigs)
07. The Rookery 3:58
07a. The Rookery {Vincent Broderick}
07b. Kevin Henry's
07c. Edenderrry (Reels)
08. Sliabh Geal gCua 3:43
09. Rolling Waves 3:54
09a. The Rolling Waves
09b. The Rolling Waves(Jigs)

All music are traditional except otherwise noted.


[Staff]
Produced by 須貝知世/ Tokyo Irish Company
Recorded, Mixed & Mastered by 笹倉慎介 @ guzuri recording house