いやもう圧巻というか、圧倒的というか。芝居を見に行って、ライヴの感動、それも並々でない感動を味わった。歌舞伎というのは、実に何でもあり、なのだ。

 何が、って、玉ちゃんの演奏である。

 玉三郎が天才だというのは、さんざん読んでいたし、人からも聞いていた。歌舞伎界ではいわば外様だが、芸と美貌だけで頂点を極めた例外中の例外。歌舞伎の世界におさまらない、スケールの大きな仕事をしている世界人。しかし、とにかく実際に体験するのはまったく別のことだ、とあらためて思い知らされる。

 演し物は「阿古屋」である。『壇浦兜軍記』のなかの一場が独立して演じられるもの。もとは人形浄瑠璃で、歌舞伎になってこの「阿古屋」の場のみが上演されてきた。遊君・阿古屋が身の証をたてるため、箏、三味線、胡弓の三種を演奏する。実際に生で演奏するので、カラオケでも「口パク」でもない。芝居の相手の重忠に対してというよりも、観客を納得させるだけの演奏をしなければならない。歌舞伎役者は演技だけでなく、踊りもできなくてはならないし、したがって楽器のひとつぐらいは素養も身につけるだろう。しかし、この三つを三つとも、水準以上に演奏できるようになるのは、才能に恵まれた者でも簡単ではない。

 玉三郎の演奏は、三つが三つとも水準を超えてますどころではない。どれも名人の域だ。たとえ役者としてダメだったとしても、この腕なら、どれか一つのプロのトップ奏者として十分通用する。それでもさすがにどれもまったく同じというわけではなく、多少は得意不得意はある。というよりも、胡弓は他の二つに比べて、明らかに好きでもあるようだ。もっともこれは胡弓だけ、まったくのソロで即興で演奏するところがあったためにそう聞えたのかもしれない。他の二つは、端で義太夫の三味線と謡がサポートする。このサポートはあるいはユニゾンになり、あるいは合の手を入れ、また一種のハーモニーをつけもする、というように様々で、例えばピアノ五重奏のピアノの位置に箏や三味線や胡弓が来るような按配だ。面白いのは、箏では上手に座った三味線、謡各々4人ずつが合わせ、三味線には、下手にこの時だけ出てきた一組が合わせる。

 この胡弓のソロ即興がまず凄い。テクニックも凄いが、入れてくるフレーズ、出してくる音に圧倒された。背筋に戦慄がたて続けに走る。胡弓の伝統は何も知らないが、明らかに現代のジャズにも通じるフレーズや音が次々に繰り出される。もちろんこんなフレーズや音は、たとえば玉三郎にこの役を伝えた六代目歌右衛門でも絶対に演らなかったはずだ。しかし、今のあたしらにとってはこれこそが醍醐味になる。

 箏にしても、三味線にしても、ソロこそないが、演奏の際立っていることはあたしでもわかる。つまり、ジャンルや形態を超えた音楽として独り立ちしている。役者が演技としてやっているのではなく、一個の音楽家がそこで演奏しているのだ。それも超一流の、その楽器、ジャンルではトップの音楽家が、最高の演奏を繰り広げている。

 もう一つ、凄かったのは唄だ。箏と三味線は演奏しながら唄う。この声がまず凄い。ちゃんと若い遊女の声だ。70近い男性の声ではない。訓練だけで、発声法だけではあれは無理なんじゃないか。日頃からよほど精進もし、また手入れも怠らないのだろう。

 見たのが千穐楽だったのは残念で、こうと知っていたなら、一幕見で通うところだ(実際、この回の一幕見は売切れていた)。毎回、このレベルで演奏しているのか、確かめたくなる。

 たぶん、玉三郎の本当の凄さはそこなのだろう。三週間半の公演中、毎回、このレベルでの演奏を聞かせるのだろう。つまり、これは演奏であると同時に演技でもある。超一流の音楽家を演ずる、それも実際の音楽の生演奏によって演ずる。たとえば、モーツァルトを舞台で演ずるとして、そこでモーツァルトが作ったのと同じレベルの新曲を次々に作曲してみせるとすれば近いのかもしれない。

 今回は夜はABに分れ、Aは玉三郎自身が「阿古屋」を演じ、Bはこれを児太郎と梅枝が交互に演じた。玉三郎自身が実際に演じるのは、だから通常の半分の回数になる。昼は『於染久松色読取(おそめひさまつうきなのよみとり)』で壱太郎(かずたろう)が一人七役をやる。つまり、今月の歌舞伎座は玉三郎が若手の女方に自分の芸を伝えるという企画。となると、ますます、児太郎と梅枝それぞれの「阿古屋」も聞きたかったところだ。

 この玉ちゃんの演奏に、他はすべて吹っ飛んでしまった。二番目の『あんまと泥棒』、三番目のこれも児太郎と梅枝による『二人藤娘』もそれぞれに面白かったのだが、玉三郎の音楽の余韻に、今ひとつ舞台に身が入らない。正直、さっさと出て、夜の銀座をうろうろしながら余韻にひたっていたかったぐらいである。

 これはショックだ。今年はたいへん良いライヴに恵まれた嬉しい年ではあったが、最後の最後にこんなものを聴かせられてしまうとは。他が全部吹っ飛んでしまうほどのショックである。まあ、玉三郎というのがそもそも特別なので、これと比べられる「音楽家」は今のわが国ではいないのかもしれない。つまり、音楽家としての器の問題だ。ジャンルとかスタイルとか、あるいは技倆とかとは別の、存在のあり方の問題だ。先日の Bellows Lovers Night で coba と内藤さんが見せたものに通じるもの。貫禄やスケールの大きさとして顕れることもあるもの。

 玉三郎の場合、それに蓄積が加わる。超一流の芸術家が、精進と実践を営々と重ねてきて、ある閾値を超えて初めて産まれるもの。玉三郎が阿古屋を演じるのは、1997年の初演以来これが11回目。練習を始めたのは14歳の時だそうだ。

 演技と演奏の関係、パフォーマンス芸術というのものありよう、ということまで、いろいろと湧いてきてしまう。少なくとも、玉三郎の「阿古屋」を、音楽をなりわいとする人間は体験すべきだ。こういうものがありうるということ、実際にやってのけている人間がいるということを実感すべきだ。玉三郎がまだこれを演るかどうかはわからない。とりあえず、3月に京都南座で「玉三郎特別公演」として演る。

 歌舞伎恐るべし。わが国伝統芸能のなかで、民間の興行として、観客を集めることで続けているのは歌舞伎ぐらいではないか。文楽や能が国家の保護に甘えているとは言わないが、大衆芸能として生きつづけている歌舞伎は、その故にこそ芸の深化、伝統の継承に命をかけている。そのことが玉三郎という一個の存在に結晶している。伝統の継承とは古いものを古いままに繰り返すことではないのだ。その時その時に演る人間、見聞する人間が面白いと感じられる形でやりなおすことだ。歌舞伎はそれを、たぶん意識して、やっている。(ゆ)