うーん、存在感が違うなあ。フィドルを弾きだしたとき、まずそう思った。かれくらいになると、技術がどうとかいうレヴェルではもちろん無いわけだし、受け取っているのはまぎれもなく音楽なのだが、感じるのは一個の人間がそこにいる、という実感なのだ。昔、「ブラックホーク」の音楽の真髄を、松平さんは「人がそこにいてうたう」と表現した。ジョン・カーティという人がそこにいて、フィドルでうたっている。

 これがアイルランドでも稀なことは、かれに関して、"It's John Carty.  That's enough." と言われていることからもわかる。たぶん、トミィ・ピープルズなんかも、こんな具合だったんじゃないか。Paddy Glackin はドーナル・ラニィと一緒だったから、むしろ親しみの方が先に立った。

 まあ、シチュエーションというのはあるかもしれない。あの狭いところで、目の前に本人がいる。周りは皆、音楽を聴きにきている客。それも年配の人が多いのは城田さんの昔からのファンが多いからだろうが、城田さんのライヴもアイリッシュが多いから、皆さん、それなりに良いものを体験してきていて、耳もできている。カーティ本人もそれを感じているのか、ちょっと窮屈そうではある。それで演奏が変わるわけでは無いが、リラックスした様子はあまりなく、1曲終わると、横で高橋さんや城田さんがしゃべっているのを見るでもなく、前屈みになって両手に持ったフィドルの胴の裏を眺めていたりする。もともとそういう性格なのかもしれないが。

 音楽は今さらあたしなんぞがどうこう言えるものではない。フィドルもバンジョーも、テナー・ギターも、芯が太くかつしなやかで、ただもう聞き惚れる、というよりも、たまたま空いていて座った席が珍しくも前の方だったから、モロに全身に音楽を浴びる感じになる。

 この存在感は圧倒的で、たまらない魅力であると同時に、アイリッシュ・ミュージックの異質性をひしひしと伝えてくる。これも、先日来、「異文化」としてのアイリッシュ・ミュージックについて、考えつづけていることもあったかもしれない。どんなに慣れ親しんでも、常日頃、どっぷりとそれに漬かっていて、ほとんどそれと意識することもなくなっていても、アイリッシュ・ミュージックがあたしにとって異文化であることに変わりはないことに、ようやくこの頃気がついた。そして異文化であり続けるからこそ、いつまでも飽きることなく、この音楽にひたっていられることにも気がついた。その異文化が、ジョン・カーティという形をとって、目の前で鳴っている。

 対象がどこか自分とは異質であって、完全に自分の中に消化吸収されてしまわないことが、あたしにとっては必要なのだ。それは日常性への反撥なのかもしれない。とにかくどこかに非日常性、おのれが生まれ育った文化とは異なる要素が無いと、最低限の魅力も感じない。そして、それを感じることで、かろうじて生きていられる。世の中には自分とは異なる存在がいると実感することが、生きてゆくのに必要なのだ。

 同様の性質を持つとして、日常の、ごくありふれたものやことにもそうした異質性を感じることができる人もいるかもしれない。それはかなり幸せな状態ではないかとも思う。が、あたしにはそういう能力は無いのだ。異質性は自分の外にあって、否応なくそれをつきつけられないと、感じられない。

 アイリッシュ・ミュージックにこれだけ漬かりこんだのは、おそらくその異質性があたしにとって最も大きく、むしろ、あたしの日常とはまるで正反対の対極にあるからではなかったか、とこの頃思う。それを理解したいとか、消化吸収したいとか、そういうことではない。そういう観点から言えば、異質なまま、おのれの中に取り込みたい、抱えこみたい、というのが一番近い。取り込んで、抱えこんでどうする、というものでもない。ただ、異質なものを抱えこむことが、生きてゆくのに必要だ、というだけのことだ。これはもう体質で、たまたまそういう体質に生まれついてしまったのだ。

 ジョン・カーティのような存在のありがたさは、日頃慣れ親しんで、ほとんど日常的になっているアイリッシュ・ミュージックが、やはり実は異文化の産物であることを、再び、まざまざと実感させてくれるところにある。

 遙か昔、The Boys Of The Lough が初来日し、アイルランドやスコットランドの伝統音楽の生の形に初めて触れたときの衝撃の正体もこうしてみると今はわかる。当時、その衝撃によって、それまで自覚していなかった「壁」が崩壊し、これらの伝統音楽の本質にようやく触れることができるようになったと考えた。具体的には、それまで退屈でアルバム片面聴きとおすのがやっとだった、アイルランドやスコットランドの伝統音楽のダンス・チューン集、ということは器楽録音のほとんどを、楽しんで聴けるようになった。それまでのあたしは歌ものばかり選んで聴いていたのだ。

 ボーイズ・オヴ・ザ・ロックのライヴによって、あたしはその音楽の異質性に初めて直接触れることができた。そして、アイルランドやスコットランドの伝統音楽のようなもの、他のヨーロッパ、だけでなく、世界各地の伝統音楽は皆そうだが、こういう音楽の異質性は録音だけではなかなかわからない。それを演ずる人間の存在感が伴うことが必要なのだ。録音では、我々は、聴くところを選択できる。同質な部分だけ選んで聞き取ることが可能だ。ライヴではそうはいかない。目の前にいる人間の、ある部分だけ選んで聴くなどというわけにはいかない。

 もっともそれだけの存在感、異質性を感じさせるだけの存在感を備えた人は、そう多くはない。あるいは、その存在感の現れ方が違うとも言えよう。パディ・モローニなどは、同胞ではない相手にはその異質性をできるかぎり感じさせないように、自ら律している。彼の場合はもう習い性になってしまっているから、おそらくそれを止めようとしても、生の自分を出そうとしても、できなくなってしまっているのだろう。

 ジョン・カーティはそんなことはしない。かれの場合、パディ・モローニとは逆に、異質性を出さないようにするなどということは想像の外だろう。かれはそこにいて音楽を演奏する。それだけのことだ。そして、あたしには、上の言葉を発した誰かと同じく、それだけで充分だ。

 生身のジョン・カーティを連れてきて、目の前で演奏するのを体験することを可能にしてくれた高橋創さんには感謝の言葉もない。そして、これまた見事なサポート、おしゃべりと音楽の双方でみごとに引き立ててくださった城田じゅんじさんにも深く感謝する。すばらしいサウンドでこの体験を完璧なものにしてくれた音響担当の原田豊光さん、そして会場のラ・カーニャのマスターはじめスタッフにもありがとう。(ゆ)

At Complete Ease
John Carty & Brian Rooney
CD Baby
2011-08-16


I Will If I Can
John Carty
Racket
2009-06-01


Cat That Ate the Candle
John Carty & Brian Mcgrath
Traditions Alive Llc
2011-04-19
 


At It Again
John Carty
Shanachie
2003-08-26