こういう音楽を聴くと、アイルランドは不思議なところだとあらためて思う。こういう音楽が生まれて、今に伝えられて、わがものとして演奏し、楽しんでいる人たちがいる。そして21世紀のこの国でこうして生で奏でられ、それを熱心に聴く人たちがいる。これはほとんど奇跡ではあるまいか。
まずゆるいのである。コンサートというあらたまったものというよりは、終演後、村上淳志さんが言っていたように、友人の家の居間かキッチンで、くつろいでいる感覚だ。音楽を聴くことが目的で集まってはいるけれど、演る方も聴く方も、それだけに執着することもない。音楽は場の中心にあって、その場にいる人たちをつないではいるが、他は全部捨てて集中する、なんてことは、どちらもない。むしろ、音楽が奏でられているこの空間と時間を共有する、シェアすることが歓びになる。
昼間の hatao & nami のライヴからたまたま一緒になった石原さんと話していて我ながらあらためて腑に落ちたのは、アイリッシュ・ミュージックのキモはこの共有、シェアというところにある、ということだった。セッションというのはそれが最も裸の形で顕われたものだが、アイリッシュ・ミュージックの演奏にはどんな形のものにも、それがある。つまりオレがアタシが演っているこの音楽を聴け、聴いてくれ、ではない。アタシはオレはこういう音楽を演るのがとても楽しいので、よかったら一緒に聴きましょう、なのだ。アイリッシュの現地のミュージシャンたちが来るようになってまず印象的だったのは、誰もかれも楽しそうに演ることだった。なにやら深刻なことを真剣にやっているんだからこちらも集中しなければ失礼だ、なんてことはカケラも無い。ここでこうして演っているのがとにかく楽しくてしかたがない、という表情が全身にみなぎっている。それを見て音楽を聴いていると、すばらしい音楽がさらにすばらしくなる。
キャサリンとレイを中心としたこのライヴは、たとえばトリフォニーのアルタンのライヴよりもさらにずっとゆるい。シェア、共有の感覚が強い。
どちらかというとハープがメインということで、演奏されるのはハープの曲、カロランやその関係の曲が多い。これがまたいい。キャサリンも言っていたように、日曜の夜をのんびりと楽しむのにふさわしい音楽だ。アイリッシュ・ミュージックとて、なにもいつもダンス・チューンでノリにのらなければならないわけでもない。渺渺たるスロー・エアに地の底に引きこまれなくてもいい。速すぎず遅すぎず、まさに、カロランが生きていたときも、こんな風に人びとは集まって、その音楽を中心にくつろいでいたんじゃないか、と思えてくる。ただ、そこに集まっていたのは当時のアイルランドの貴族やその係累で、ここでは、アイルランドとは縁もゆかりもない、遙か遠い島国に生まれ育った人たちであるというのが、違うわけだ。
あらためて考えてみればこれは凄いことなのだが、それはまあ別の機会にしよう。キャサリンとレイの音楽は、300年の伝統の蓄積を元にして、時空を超える普遍性を備えるにいたっている。わけだが、それをそんなに凄いこととは露ほども感じさせない、そういうものでもある。あたかもその音楽は、われわれ自身の爺さん祖母さんたちが炉辺で演っていたもののように聞える。
レイはギターも弾くが、ぼくらが聴きなれたようにコード・ストロークをしない。ピッキングでメロディを弾く。ハープとユニゾンする。これはなかなか新鮮だ。ギターによるカロラン・チューン演奏はそろそろ伝統といってもいいくらいになってきたかとも思うが、まずたいていはソロで、ハープとのユニゾンは初めて聴く。こういうユニゾンが、ぴたりと決まっていながら、またゆるく聞えるのは、この二人のキャラクターでもあろうか。
レイは歌もいい。〈Mary and the Soldier〉はポール・ブレディにも負けない。もっと歌は聴きたかった。
ゲストがたくさん。奈加靖子さんが唄い、村上さんがハープをソロで弾き、二人と合わせる。これもゆるい。いや、奈加さんの歌はますますピュアになっているけれど、この場ではいい具合に溶けている。そして、サプライズ。小松大さんがフィドルで入って、キャサリンがピアノを弾いて、レイと二人でケイリ・スタイルのダンス・チューン。これがなんともすばらしい。演っている方も気持ちよかったのだろう、最後の最後のアンコールにもう一度やる。
そうそう肝心なのは、ゆるいはゆるいのだが、ぐずぐずに崩れ、乱れてしまうことがない。一本筋が通っているというと、またちょっと違うような気もする。しぶとい、といおうか。どこか、底の方か、奥の方か、よくわからないのだが、どこかでゆるいままに締まっている。ヘンな言い方だが、そうとしか今のところ言いようがない。それで思い出すのは、大昔、サンフランシスコのケルティック・フェスティヴァルに行ったとき、夜のパブのセッションで、たまたま隣に座っていた妙齢の女性がろれつも回らないほどぐでんぐでんになっていたのが、やおらアコーディオンを持つや、まったく乱れも見せずに鮮やかに弾きつづけていた姿だ。これが Josephin Marsh だった。
それにしても、二人とも現地ではともかく、こちらではまったく無名、本人たちはそこらへんにいるおばちゃんおじちゃんで、見栄えがするわけでもない。それが小さな会場とはいえ昼夜2回の公演が満杯、ワークショップも盛況、というのだから、世の中変わったものである。大阪から追っかけで来ていた人たちも何人かいた。
まあ、それも主催の松井ゆみ子さんの人脈と人徳のなせるわざではあろう。まことにいい思いをさせていただいて、ありがとうございました。
会場は西荻窪の駅からは20分ほど歩く。東京女子大の裏、善福寺公園のほとりにある洒落たホール。面白いのは、入口に近い、部屋の真ん中のところにミュージシャンたちがいて、リスナーはその両側からはさむ。アトホームなゆるさはあの形からも生まれていたようでもある。日曜日の夜、そろそろ花粉のシーズンも終わりに近づき、まさに空気がゆるい。(ゆ)
コメント