このユニットは服部阿裕未さんが歌を唄うのがテーマの一つだが、いきなり歌で始まったのには、ちょっと意表を突かれた。ジブリの〈風の通り道〉。この歌を聴くたびに、あたしは辻邦生が水村美苗との往復書簡集『手紙、栞を添えて』のエピローグとして書いた「風のトンネル」を思い浮かべる。辻のほとんど絶筆といっていいこのエッセイは、軽井沢の家から浅間山に向かって風が開いたトンネルに、自分の表現活動の源泉ないし根幹またはその両方を認め、その生涯をまとめあげた美しい文章で、宮崎駿が示そうとしたものとは、まああまり関りは無い。無いのだが、この歌を聴くたびにこの文章が思い浮かぶ。逆はあまりないが、歌は文章を呼びおこす。そしてその文章を読むときの、静謐な時間の味が甦る。

 服部さんの歌唱は精進の跡が歴然としている。シンガーとしての実力が上がったというよりは、プレゼンテーションのコツを摑んでいる。人前で歌を唄うのは、ただその実力を常にフルに発揮すればいいということではたぶん無いのだ。ライヴの場の設定によっても、一つのギグの中においても、どこまで力を出すかは変わってくるのだろう。たとえばここでの歌唱と、後の〈想い出づれば〉での歌唱では、実力の出し方は明らかに違った。

 アレンジも良くなっている。コンサティーナとブズーキのバックは静かに始まって、徐々に盛り上げてゆく。ライヴの後で高梨さんがしきりに「按配」を気にしたと言っていたのがよくわかる。バックの音量が大きすぎず、小さすぎず、実にうまく「按配」されている。

 歌が半分。前回もやったスザンヌ・ヴェガの〈The Queen and the Soldier〉も格段に良い。これは三拍子の曲であることに初めて気がついた。服部さんの歌はスイングしている。

 〈Johnny's Gone for a Soldier〉は悲劇を明るく唄うのがミソで、ここでもホーンパイプの〈Rights of Man〉と組み合わせて楽しいが、服部さんの声は愁いを帯びていて、どうやっても明るくなりすぎない。意識してうたっているとすればたいへんなものだし、生来のものであるなら、ますます貴重だ。

 そしてとどめは〈想い出づれば〉。John John Festival もやっている明治の唱歌を、やはりコンサティーナとブズーキをバックに正面切って唄う。唱歌とか歴史とかいう前に、一個の良い歌として唄いきる。しかも伴奏楽器とアレンジによる斬新なシチュエーションの中で唄われて、これは今の、現代の歌として聞える。歌詞は意味云々の前にまず美しい。言葉の響きが美しい。明治の人びとはヨーロッパの文物に出会って、これを日本語に移すために苦闘した。その苦闘によって日本語はそれ以前とは次元を異にするほど幅の広い表現能力を獲得した。いわゆる小学校唱歌もまたその苦闘の一環でもあり、またその最上の成果の一つでもある。こういう歌を聴くとそう思う。それらはまたアイルランドやスコットランドの伝統歌のメロディを採用することで、そうした伝統歌そのものへの我々の回路を開いてもくれたが、ここではそのメロディもあたかも我々自身の伝統のようにも響く。

 この方向はぜひ探究してほしいし、本人たちも何か摑んだものがあったらしい。この日唄った〈Uncle Rat〉はアイルランドのわらべうただが、日本語のわらべうたまで含めた日本語の歌のアイリッシュ的解釈を集めて1枚アルバムを作ってもいいのではないか。

 歌がよくなるとダンス・チューンも良くなる。という法則があるわけじゃないが、これもまた良くなっている。前半のポルカでは音を伸ばさずにスタッカートのように切るのが面白く、アンコールのリールではうまく回っているセッションの趣が味わえた。が、個人的ハイライトは後半のジグのセット。コンサティーナ、アコーディオン、ブズーキという組合せが珍しいことはご本人たちも自覚しているそうだが、こんなに面白いものとは今回の発見。とりわけ、コンサティーナが低くふくらむところやコンサティーナとアコーディオンがからみ合うところは、もうたまりまへん。こういう低い音の膨らみは蛇腹楽器ならではだ。笛ではできないこういうことをやりたくてコンサティーナに手を出したという高梨さんの気持ちもよくわかる。

 こういうユニットを聴くのにホメリはぴったりではある。サイズも響きも、増幅無しに聴いて気持ちがいい。ちょうど繊細なイラストの展示もしていて、これまた彩の音楽に雰囲気がぴったりだった。こういう音楽を生で聴くと、耳の健康にも良いように思うのは錯覚とばかりは言えまい。(ゆ)