このところハモクリは対バンばかり見ている。前回は踊ろうマチルダで、この出会いも喜んだが、今回の古川麦も引き合わせてくれたことに感謝する。

 本人の歌とギターと口笛、ダブル・ベース、それにドラムス。ドラムスはハモクリと同じ田中佑司。この田中氏は tricolor のレコ発の時の田中氏で、繊細で陰翳の細やかなドラマーだ。清野さんに言わせれば「大人のドラムス」。ハモクリでのドラミングが「コドモのドラムス」とは思わないが、フロントを乗せる乗せ方がシンプルでないことは確か。tricolor の時のドラミングとももちろん違って、これまでのところでは一番ジャズに近い。あたしにはとても面白い一面ではある。この人のドラミングはもっといろいろな組合せ、シチュエーションで見てみたい。

 ダブル・ベースの千葉広樹氏も凡百のベーシストではない。もっとも今のところ、「平凡な」ベーシストというのは幸いにして見たことがない。ダブル・ベースを人前で弾こうというほどの人は、誰も彼も一騎当千、一国一城の主だ。千葉氏はソロもとり、アンコールでは田中氏とも渡り合って、むしろこれを煽っていた。

 古川氏はまず英語がうまい。というよりこれはネイティヴの英語だ。発音はアメリカンだが、楽曲は必ずしもアメリカンというわけでもない。どこか、アメリカにはないシャープなところがあって、はじめはカナダかなと思った。後でバイオを見ると、カリフォルニア生まれでオーストラリアで育つとあるのに納得。

 古川氏の英語には日本語ネイティヴの訛が無い。音楽にも日本語ネイティヴがアメリカなどの音楽をやる時の訛が無い。そこがひどくさわやかだ。訛は無い方が常にいいわけではない。あった方が味が出ることもあり、それはケース・バイ・ケースだ。古川氏の場合には、無いことがプラスに出ている。

 それは発声法にも出ていて、最近の若い日本語ネイティヴのうたい手に共通する裏声的な発声ではなく、もっと地声に近く、無理がない。聞いていてストレスを感じない。すなおに耳に、そしてカラダに入ってくる。

 ギターのセンスも面白い。鮮かなフィンガーピッキングを聞かせるかと思うと、コード・ストロークで展開するソロがそれはスリリングだったりする。

 さらに面白かったのは、エフェクタなのだろうか、その場で弾いたり唄ったりしたものを録音してリピートさせ、それに歌やギターをかぶせるということをする。一人で自分の声にハモったりする。あらかじめ録音しておいたものではないらしい。

 そうしたセンスと手法が、なんとも新鮮だ。日本語と英語の往復にも無理がない。両方に軸足を置いている。日本語の世界にも英語の世界にも根を下ろしながら、中途半端でもないし、どちらかに足をとられることもない。ハイブリッドと簡単に片付けられるものでもなさそうだ。そこには人知れぬ本人の努力と苦労があるはずだが、明らかにこれまで日本語の歌の世界には無かった、新鮮な感覚がある。英語がモノマネでもないし借り物でもない。それがそのまま日本語にも通じている。どちらか一方に偏るのではなく、共存している。

 ベースとドラムスの二人も、リズム・セクションというよりは、ユニットとして、古川氏のそうしたスタンスを理解し、共鳴していると聞える。トリオでやることで、陰翳がより深くなり、細部が浮かびあがる。


 ハモクリは半年に1度ぐらいの間隔で見ると、変化がわかっておもしろいでしょう、と終演後に清野さんに言われた。今のハモクリに変化を求めているわけではないが、この日は冒頭にやった新曲がまずみごと。フィドルとハープが別々のメロディを奏でながら、全体として統一されたグルーヴを生んでゆく。これはスリリングだ。

 これまではどちらかといえば、アイリッシュ流のユニゾンで、ハープとフィドルが細かい音の動きをぴたりと一致させてゆく。そのフレーズ、メロディが、ケルトとブルーズの融合した、ハモクリ節とでも呼びたくなるユニークなもので、意表を突く展開がソリッドなグルーヴに乗ってゆくところにスリルがあった。それはこの夜も同じで、おなじみの曲のスリリングなことは変わらないのだが、冒頭の曲に現われた傾向が今後、新たな流れになってゆくとすれば、ハモクリのもう1本の柱になってゆく可能性もあろう。

 もう一つ新鮮だったのは、アンコールの最後、全員にソロを回したときの長尾さんの演奏。これまでもあったかもしれないが、組合せが違うせいか、をを、こういうこともやるのかという意外性を感じた。もっとふつうにああいうコード・ストロークの展開を入れてもいいように思う。というよりも、もっと聞きたい。

 元住吉は別件で何度か降りたことがあるが、いつも駅の周辺か、川沿いに日吉の方へ下っていたので、その向こうにああいう小屋があるとはこれまたいささか意外ではある。チキン・カレーはたいへん美味でござんした。(ゆ)