つい先日創刊40周年記念号を出した fRoots 誌が休刊を発表した。事実上の廃刊だろう。だしぬけの発表で、40周年記念号巻頭では、編集長を降り、次代へ引き継ぐことに楽観的な見通しを編集長アンダースン自身が書いていたから、驚かされた。
一方で、やはりそうだったか、という感覚も湧いてきた。Kickstarter による資金調達の成功にもかかわらず、その結果は季刊への移行だったし、編集長を次の人間に讓る意向をアンダースンが表明してからも、具体的な進展は示されないままだった。草の根資金調達で得られた資金はつまるところ、リーマン・ショックによる広告収入の激減で負った多額の負債の返済にあてられたことも、わかってきていた。
ふり返ってみれば、この雑誌は創立者で編集長のイアン・アンダースンの個人誌だった。協力者や執筆者には事欠かなかったにしても、カヴァーする音楽の選択、取り上げる角度やアプローチの態度を決めているのはひとえにアンダースンの嗜好であり、感覚だった。その雑誌が時代からズレるというのは、必ずしもアンダースン自身の感覚や嗜好が時代とズレているからではないだろう。紙の定期刊行物は音楽シーンをある角度で切り取って提示する。その角度の意外性で勝負する。fRoots はその点では際立っていた。端的に言えば、その表紙にとりあげられたことで初めて教えられた優れたミュージシャンたちの多さだ。あるいは既存の、よく知られたミュージシャンでもその表紙になって、新鮮なリブート体験を我々は味わうことになった。
雑誌制作の性格としては中村とうようの『ニュー・ミュージック・マガジン』に似ていなくもない。ただし、アンダースンと中村では、音楽業界への態度は対極ではあった。業界への影響力を確保することを目指した中村に対し、アンダースンは業界と馴れ合うことを避け、常に一線を画した。ミュージシャンとリスナーの側に立っていた。音楽はミュージシャンとリスナーのものであり、レコード会社や著作権管理会社のものではない、という態度だ。そこが fRoots と Songline の決定的な違いであり、だからこそ fRoots は信頼できたのだった。しかし、おそらくはこのことが、fRoots 存続の可能性を断ったのではないかとも思われる。
fRoots の手法は媒体が限られていて、ヨーロッパのルーツ・ミュージックに関しては fRoots ないしその前身の Folk Roots がほとんど独占状態だった時には絶大な効力を発揮した。年2回、付録につくサンプラーCDを、我々はまさに垂涎の想いで手にしたし、また期待は裏切られなかった。Songline はカタログ雑誌にすぎなかったから、fRoots を補完するものではあっても、その存在を危うくするものではなかった。
今世紀に入り、情報の媒体が紙からネットに移る頃から fRoots の存在感が薄れだす。むろん、変化は徐々で、初めはそうとわからない。はっきりしてきたのは2010年代に入ってからだ。いや、たぶん、2008年のリーマン・ショックは fRoots の媒体としての影響力が低下していた事実を明るみに出したのだ。
fRoots のセレクション、プッシュするミュージシャンと録音の選択やその評価の内実が劣化したわけではない。その点では、各種ネット・マガジンも含めて、最も信用のおけるもので、肩を並べられるものはない。音楽雑誌編集者としてのアンダースンはやはり20世紀最高の1人であることはまちがいない。しかし、情報環境の変化は、意外性を主なツールとした fRoots の手法を不可能にした。紙では遅すぎたし、肝心の音を聴かせることもできず、意表を突くことができなくなったのだ。そして、経営者としてのアンダースンは、その環境に適応することがついにできなかった。
環境の変化に適応することができなかったとアンダースンを非難するのは不当というものだ。それができている経営者も編集者も、今のところいないのだ。成功しているのはすべて新たに出現した手法であり、人びとだ。パラダイム・シフトが起きるとき、古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムに適応したり、転向したりして起きるわけではない。古いパラダイムを担っていた人びとが新たなパラダイムを持った人びとにとって換わられて、パラダイムは転換する。
紙の媒体、とりわけ音楽誌のような情報提供を主な機能とする媒体において、今起きているパラダイム・シフトを生き延びる方策を見つけ、あるいは編み出した人間はまだいない。カタログ雑誌つまり宣伝機関としては別だ。それは機能が異なる。fRoots のような、批評すなわち価値判断を含む情報を提供する媒体は消滅しようとしている。メディアは何が出ているか、知らせればいい、価値判断はリスナーがそれぞれにくだすのだ、というのが趨勢なのだろう。しかし、リスナーは本当に自分にとって適切な判断を下せるのか。その判断の基準は何か。
判断基準は知識と経験によって作られる。ここで肝心なのは、快楽原則による経験のみではうまくいかないことだ。聴いて気持ちがよいものを選ぶだけでは、使える判断基準を作れない。ひとつには「気持ちがよい」ことに基準が無いからだ。もう一つには、砂糖や阿片のように、無原則な快楽追及はリスナー自身の感覚を破壊するからだ。だから、批評すなわち知識が必要になる。批評とは対象のプラス面だけでなく、どんなものにも必ずあるマイナス面も把握し、両者の得失を論じ、全体として評価する行為だ。片方だけでは批評にならない。
fRoots の重要さはそこだった。世に氾濫する音楽に対して、批評を働かせていた。しかもその軸がぶれなかった。音楽伝統に根差したものであること。伝統へのリスペクトがあること。ミュージシャン自身に音楽表現へのやむにやまれぬ欲求があること。この雑誌が選び、プッシュする音楽は聴いて楽しく、美しく、面白く、哀しい。そして時間が経ってもその楽しさ、美しさ、面白さ、哀しさが色褪せない。かつて付録についていたCDを今聴いても、面白さは失せていないし、それどころか、今聴く方が面白い場合も少なくない。その時、流行っているから、売るために金をもらったからプッシュするのではなく、他の様々な音楽と並べてもより広く聞かれる価値があると判断してプッシュしていたからだ。
現在とってかわろうとしている新たなパラダイムは、批評を必要としないのだろうか。対象に無条件に没入することは一時的には至福かもしれない。一方で、中毒の危険性は致命的なまでに高い。対象から一度距離をとり、その利害得失を冷静に測ることは、あるドラッグの性格と致死量を測定することに等しい。そのドラッグによってどのような体験が可能となり、どこまでは致命的な中毒に陥らずに摂取できるか。それは、いつ、どこにあっても、何に対しても重要だ。そして現在は、新たなドラッグ、摂取の仕方も効果も致死量も様々に異なるドラッグが、日々考案され、リリースされている。入手も従来より遙かに簡単だ。ドラッグは何もヘロインやアルコールやニコチンや砂糖だけではない。中毒性のあるものは何でもドラッグになる。テレビもゲームもSNSも、音楽もアニメも演劇も、すべてドラッグになる。むしろ、批評が必要とされていることでは今は空前の時代なのだ。新たなパラダイムにふさわしい批評のあり方、手法や伝達方法がまだ見つかっていないだけなのだ。
fRoots にもどれば、たとえ雑誌の継続発行は途絶えても、この雑誌が築いてきた批評が消滅するわけではない。40年間の蓄積もまた、他には無いユニークなものだ。
とりあえず、イアン・アンダースンよ、長い間、ご苦労様。ありがとう。ゆっくり休んで、あなたのもう一つの顔、優れたミュージシャンとしての活動に本腰を入れてくれますように。(ゆ)
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