ギミックも何も無い。凝ったデザインのコスチューム、派手なライトショー、入念なステージ・パフォーマンスなどというものには、元々無縁な音楽ではあるのだが、それでも音楽をより魅力的なものにしようとする努力は皆それなりにしている。ここで言うのは音楽そのものではなく、演奏に付随する様々な仕掛けのことである。たとえばギグのタイトル(「春のゲンまつり」)であったり、意外な組合せの対バンであったり、レコ発ライヴであったり、新しい楽器の導入であったり、という具合だ。それが悪いなどと言うわけではもちろん無い。反対にそういう努力はリスナーだけでなく、演奏者自身にとっても必要なはずだ。
昨夜の二つのユニットのライヴには、そういう仕掛けが、最低限のものすら見えなかった。その故だろうか、にもかかわらず、だろうか、現れた音楽はそれはそれは素晴らしいもので、これだけのライヴはこれまでに何度体験できたろうか。今年のベスト、とかそういうレベルとはまたどこか別の軸での話である。この一夜だけの、全宇宙の全歴史の中で一度だけ起きた、あの時あの場にいた人間だけが共有し、それぞれの心と体の中に記憶として沁みこんだ何か。音楽体験として根源的なものに触れて、共振したという記憶。
1つの要因はこの演奏が入念に準備し、練りあげたものでは無かったということかもしれない。後で梅田さんが繰り返していたのが、3 Tolker のメンバーは各々に忙しく、リハーサルの時間もなかなかとれず、3人揃うのはライヴの場だけという状態なので、こうして一緒にやれるのが嬉しくてしょうがない、ということだった。その歓びがそのまま音楽になってあふれ出ていたのだ、あれは。
3人各々のミュージシャンとしての質がもともと高いし、北欧の音楽を愛することでの連帯感もあって、3人の音が文字通り共鳴しているのだ。共鳴は北欧の音楽の基本的性格だ。ハーディングフェーレやニッケルハルパのように共鳴弦の方が演奏弦よりも多い楽器だけでなく、シンプルなフィドルを重ねて共鳴させることも大好きだ。
3 Tolker は各々の伝統の現地からは離れていることを活かして、ノルウェイ、スウェーデン、フィンランド、デンマークの各々の曲を自在に往来する。本来の伝統ではニッケルハルパでデンマークの曲を演奏することはありえない。それを言えば、ハープがいるのは、北欧でもハープの人気は高くなっているそうだが、まだまだ稀な類だ。しかしそういう反則技が反則にはまったく聞えない。まあ、こちらが各々の伝統に育っているのではないことも作用しているだろうが、それはむしろ幸運なことだとすら思えてくる。こういう音楽が聴けるなら、反則したっていいじゃないか、いや、どんどん反則してくれ。
それが最も端的に現れていたのは、3曲め、スウェーデンのワルツからポルスカへのメドレー。ワルツを弾くハープはほとんどバロック音楽に響き、そこからニッケルハルパの低域の共鳴が流れ広がると、ふうわりと体が浮く。ハープの左手のベースのアクセントがツボをビンビン押えて、フィドルが優雅に大胆に遊ぶと、そこはもう異世界だ。隣りにいた品のいいおばあさんが、思わず声をあげたのもむべなるかな。ここには魔法が働いている。
後半のトリオもパーマネントなものではない。松岡さんとキャメロンは RCS の同窓で、折りに触れて一緒に演奏している仲だそうだが、トシさんが入るのはまた別である。このトリオでここふた月ほど、各地で演奏してきていて、トシさんによれば、どんどん良くなってきているとのことだったが、こうしてライヴを見ると、クリス・スタウト&カトリオナ・マッケイも一番始めの頃はこうだったんじゃないか、と思えてくる。
松岡さんはカトリオナを見てスコティッシュのハープを志し、RCS、Royal Conservatoire of Scotland に留学して、Corrina Hewat に師事したという。演奏する姿はカトリオナを髣髴とさせる。何よりも楽器を右側に少し傾むけて支え、左手を弦に叩きつけるようにするのは迫力がある。ハープはその姿もあるし、自立できる、つまり演奏者が支えたりしなくても立っていられる唯一の楽器だから、他の楽器に比べると演奏者が楽器に奉仕しているように見えなくもない。それが、こうして傾むけると、弾き手が楽器を自在に操り、他の楽器と同じようにこき使っているように見える。後で訊いたら、始めはやはり真直ぐにして弾いていたのだが、なぜか腰が痛くてたまらなくなり、その解決策として傾けることにおちついたのだそうだ。この辺は伝統音楽の柔軟なところでもある。
カトリオナには一度インタヴューさせてもらったが、本人は何とも天然な人だった。キャラクターの地はまったく対照的だが、シャロン・シャノンの天然さにも通じるところがあった。それが、いざ演奏するとなると、がらりと雰囲気が変わって、ハープをぶん回し、弾きたおし、楽器を限界以上に駆使する。ように見える。インタヴューしたのは初来日の時だから、音楽的には今の桁外れものとは直接は比べるべくもないが、それでも既にあのデュオの音楽はすっ飛んでいた。
松岡さんの演奏にも、それに通じる、どこか箍がはずれたところがある。いい意味で、収まるべきところに収まらない。どんな枠をはめようとも、常にそこからはみ出してゆこうとする勢いがある。松岡さんがスコットランドの音楽に惹かれたのも、そこに共鳴したのかもしれない。アイリッシュではこういう音楽は生まれにくい。シャロン・シャノンの存在はあるにしても、アイリッシュにはどこまでも求心的な志向があり、スコティッシュは遠心を志向する。どちらも一方通行ではなく、主に向かう方向とは対極にあるものを常に意識してはいるけれど。そして松岡さんも、MCの時と、演奏している時の雰囲気がこれまた対照的だ。
キャメロンはスコットランド本土のすぐ北のオークニーの伝統をベースにしている。母親がオークニーの出身であり、当然親戚も多く、音楽一族であるそうだ。本人は一度クラシックを学ぶが、やがてルーツに遡っていったそうだ。
クラシックを一度学んだことはプラスに作用していると聞える。この点はハラール・ハウゴーやナリグ・ケイシーのように、両方の技法を使えることはメリットだろう。キャメロンの場合、それに加えて、音色の点でも良い結果を生んでいるのではないかと思える。これは証明はたぶんできないし、本人もわからないだろう。あたしのまあ直感みたいなものだ。つまりかれのフィドルの音色に感じられるふとやかな艷は、伝統的というよりももっとパーソナルなところから生まれているのではないか、ということだ。そして意識してそういう響きを出そうとしているのではなく、むしろ抑えようとしても出てきてしまうものでもあるだろう。一方でこのふくらみには伝統が作用している可能性ももちろんある。2曲め、オークニーの伝統曲のワルツでのふくらみにまずノックアウトされたからだ。
あたしがこの艷のある響きが好きなのは、中低域でひときわこの艷が深みを帯びるからでもある。フィドルよりもヴィオラやチェロ、ハープやピアノでも左手が気になるようになったのは、たぶん年のせいもあるだろう。ケルト系の音楽のキモは高域の輝きにあることは承知の上で、そこが輝くものよりも、中低域がふくよかな演奏に接すると、顔がにやけてしまう。
キャメロンのフィドルには端正なところもあって、そこがまた気持ちがよい。一方で、優等生的なところも無いではない。たとえばエイダン・オルークのような、闇の世界とでも呼びたい突きぬけたところがあってもいいな、と思えることもある。別にエイダンのようになれ、というのでは無いし、無理に作るものでも無いのは無論のことだが。まあ、これからまたいろいろと吸収して、一回りも二回りも大きくなるだろう。昨日も 3 Tolker を聴いて、北欧音楽に開眼したようだったし。
トシさんはなるべく裏方に徹しようとしていたが、それでもフィル・カニンガムの曲のジャズ的解釈でのブラシは新境地だったし、1曲披露したマウス・ミュージックも進境を見せていた。あたしの好みではちょっと発声がきれいすぎるのだが、これはまあまた変わってゆくだろう。
この松岡、ニュウエル、トシバウロンのトリオは今日は西調布の菜花でのライヴ、そして明日は下北沢 B&B でのトーク&ライヴがある。
菜花でのライヴはトシさんがキュレーターをしている「菜花トラッド」の3回め。ここのライヴは食事付きで、毎回、ライヴに合わせた特別メニューが食べられる。とにかく旨いし、料理込みの料金なので、他のライヴよりもお得だ。料理の旨いライヴハウスも少なくないが、ここのは特別と、太鼓判を押しておく。
明日のイベントはあたしも参加して、RCS について、いろいろと伺い、またトリオでの演奏もある。現地の大学や大学院で、クラシックではなく、伝統音楽を学ぶとはどういうことか、費用や授業内容などの基本的なところから、日常生活の細かいことまで、生の声を直接聞ける。準備として、お二人から聞いた話はたいへんに面白く、これならあたしも留学してみたいなどとあらぬことを思ってしまうくらいだ。予約が無くてもOKなので、当日ふらりと来られるのも薦める。
キャメロンはこれを最後に帰国する。このトリオの音楽を聴けるのは、当分無いので、その意味でも貴重。生演奏は一期一会、たとえ同じメンバーでやっても、次の音楽はまた違う。(ゆ)
3 Tolker
酒井絵美: fiddle, hardandingfel
榎本翔太: nickelharpa, vocals
梅田千晶: harp, vocals
松岡莉子: harp
Cameron Newell: fiddle
トシバウロン: bodhran, vocals
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