消せるボールペンが嫌いだ。ボールペンは消せないところがよいのだ。書いた文字が消えてしまってはボールペンでは無い。

 それ以外の筆記具は好きだ。万年筆、つけペン、鉛筆、シャープ、芯ホルダー、クレヨン、筆、チョーク、木炭。ボールペンだって、消せないものは嫌いではない。ゲルインクもいい。ガラスペンはまだ試したことがない。

 日本語は手書きがベストだ。3種類の文字を使い、その混合の仕方も、一定の原則はあるとはいえ、事実上、規則は無い。すべての文字をひらがなだけで書いても、カタカナとひらがなを1字ずつ交互に書いても、あるいは万葉仮名のように漢字だけで書いてもかまわない。こういうテキストを書くのに、AIがどんなに発達しようが、予測は不器用すぎる。勝手気儘に、勝手きままに、かって気儘に書く書き手の気まぐれの予測は不可能だ。

 この文章は Mac 上のテキスト・エディタ miAquaSKK のインプット・メソッドで書いている。AquaSKK は SKK の macos 版だ。SKK は予測をしない。漢字とかなの区別は書き手が意図的に指定する。shift キーを押しながらアルファベットを押すと、そこから始まる文字は漢字になる。漢字の終りすなわち送り仮名の開始も同様に指定できる。後は同音異義語の候補を選択するだけだ。辞書への登録もその場で、別ウィンドウなどは開かず、テキストの上でしてしまう。日本語インプット・メソッドの中では手書きに最も近い使用感を備える。

 それでも手書きにはかなわない。書くスピードも手書きにはかなわない。デジタル・テキストが手書きに優るのは、書いたものを編集する時だ。書きなおし、改訂、順序の入替えなどについては、手書きはデジタルの敵ではない。だから、書く時は手書きでも、仕上げはデジタルになる。

 アリエット・ド・ボダール『茶匠と探偵』邦訳の初稿は手書きで書いた。もともと、翻訳の初稿は手書きが多い。紙はなんでもいい。そこらにあるものを使う。原稿用紙、チラシの裏、前の本のゲラの裏、とにかく空白で、書ける紙ならば何でもいい。筆記具もその時々の気分で選ぶ。今日は万年筆、明日はシャープペンシル、明後日はゲルインク。章が変わると書く道具も変えてみる。時には1枚の紙ごとに変えてみる。

 それでも贔屓はあって、シャープペンシルを偏愛している。それも芯径0.7mmのもの。舶来の製品にはこの芯径が多い。国産は0.5mmがほとんどだ。ペンテルの Smash は銘機として名高いが、0.7mm は廃番になってしまった。『茶匠と探偵』でも、初めはいろいろ使っていたのだが、だんだんシャープペンシルが多くなり、最後は1機種に絞られた。無印良品の「ABS樹脂最後の1mmまで書けるシャープペン」だ。ツラが気に入って、つまり外観に惹かれて買った。これで 0.7mm があれば最強、他のものはもう要らないレベル。手にぴったりとなじみ、いくら書いても疲れない。良い筆記具は書く文字も綺麗に見える。このシャープペンシルで書く文字は、自分史上最高に美しい。そして、できてくる翻訳文も良くなってくるように思われる。『東京人』の特集で川崎和男は「手の起電力が脳から発想を引き出す」という。手で書くことで、脳が動きだすことは実感する。もう1つ、脳がよく動くのは歩くことだが、歩きながら翻訳はあたしにはできない。数ある翻訳者の中には、歩きながら原文を読み、口述翻訳して録音する人もいるかもしれない。あたしはせいぜい、手で書くことで脳を活性化する。

 だけではたぶん無い。翻訳は脳だけでやるわけではない。全身を使う作業だ。肉体労働なのだ。翻訳の前の本を読むことからして、肉体労働、全身を使う作業だ。翻訳はこれに手書きが加わる。手で文字を綴ることは、眼と手だけの作業ではない。

 筆記具は水物だ。イヤフォン以上に水物だ。イヤフォンは音が出るだけで、こちらから何か働きかけるわけではない。筆記具はそれだけではタダのモノだ。こちらが握り、何かを書きだして初めて筆記具となる。だから、同じ筆記具を使っても、人によって使用感が異なる。同じペンをある人は銘機といい、別の人はゴミというだけではない。同じ人間が、時と場合によって筆記具の使用感が変わる。昨日、最高に書きやすかった筆記具が、今日はどうやってもうまく書けないこともある。かつてプラチナの製図用 Pro-Use、短かい方だ、あれの0.7に惚れこんだ。もう夢中になっていくらでも書けた。それが、何かの事情でしばらく使わずにいて、ある日、手にとるとダメなのである。どうやってもあのフィット感がもどってこない。それでも、他のものに比べれば書きやすいことは確かだが、まるで自分の手の延長に思えた感覚は消えていた。今度の無印良品ABS樹脂のシャープペンシルではその感覚だった。並べてみると長さもほぼ同じ。重さはABS自死とアルミでだいぶ違う。

 『茶匠と探偵』初稿を手書きで書こうと決めたのは、著者が万年筆マニアであることが理由の1つだ。著者は原稿は手書きではないという。本職はソフトウェア・エンジニアだし、手書きよりもキーボードを打つ方がはるかに楽だろう。それでも、原稿になる前のアイデア出しとメモ、ブレーンストーミングでは万年筆とインクを使っているそうだ。


 ケイト・ウィルヘルムはリング・ノートにボールペンで書いている写真がある。

kw+note+pen

 サミュエル・ディレーニィの自宅の朝食のテーブルにはノートとボールペンが載っていた。

20180907 A writer's kitchen table in a septembre morning

 Paul Park は1983年にマンハッタンのアパートと職を捨ててアジアへの旅に出た。ヒマラヤをトレッキングし、インド、ビルマ、ネパール、それに東南アジアを回った。最初の長篇 "Soldiers Of Paradise" (1987) はその旅の途中、ラジャスタンから黄金の三角地帯にいたる、あるいはマンダレーからジョクジャカルタまでの、安ホテルや借り部屋で、ノートやメモの切れ端に書かれた。当然手書きだ。宇野千代は『東京人』の特集でも宣伝されている三菱鉛筆の uni で書いた。初めは2Bを使っていたのが、年をとるに連れて濃く柔かくなり、最後は6Bだったそうだ。名著『森のイングランド』を川崎寿彦は鉛筆で書いた。
 『東京人』の特集で林真理子は文学賞に応募してくる作品が長くなる傾向を認めている。不要な描写が多いと言うが、手書きでは節約しなければならない体力も、キーボードを叩くためには浪費できるのは事実だ。もっとも、漢文あるいは漢字かな混じり文を書くのと、アルファベットだけを書くのとでは、同じ手書きでも必要なエネルギーが異なるのか。ギボンもディケンズもバルザックもドストエフスキィもトルストイも、プルーストですら手書きであの厖大な著作を残した。日本語で2,000枚は超大作だが、英語圏のエンタテインメント、とりわけエピック・ファンタジィではほぼ同じ分量である20万語が今やデフォルトの長さといっていい。しかしそこに「不要な」描写、叙述は無い。異質な世界、現実にはありえない世界を、十分なリアリティをもって構築するには、微に入り、細を穿った描写、記述が必要なのだ。

 『茶匠と探偵』はそんなに長くない。9本合計で75,700語。邦訳原稿は580枚弱になった。良質の短篇集は数冊の長篇に匹敵する、とは筒井康隆の名言だが、この本にまさにあてはまる。手書きで書いた初稿を改訂しながら、Mac に打込む。Mac でも縦組みで書き、編集印刷するのは簡単になった。今回は復活した ezword Universal を使った。インプット・メソッドはむろん AquaSKK だ。打込んだものをプリント・アウトしてさらに改訂し、それに従ってデジタル・テキストを修正する。そういう作業を繰返して原稿を完成する。もちろん、編集者や校正者とのやりとりで、さらに改訂することになるわけだが、それをやるにしても、まずは土台を固めておかねばならない。もうこれ以上改訂しても良くはならないところまで持っていっておかなくてはならない。より正確に言えば、これ以上改訂しても、良くなったのか、変わらないのか、悪くなったのか、判断できなくなるところまで持っていっておかねばならない。

 改訂の作業は面白くない。翻訳で一番面白いのは、やはり最初の、まずヨコのものをタテにしてゆくところだ。そして、ここは手書きでやるのが一番面白い。鉛筆やシャープペンシルを使うときでも、消しゴムは使わない。どんどん線で消し、その横に新たに書きこみ、さらに別のところに書いた文章をそこに線ではめ込み、それが重なって、どこからどこへどうつながるのか、わからなくなることもある。1段落全体に×をつけて、新たにやりだすこともたまにある。

 『東京人』の特集を眺めながら、やはり手書きは基本、文章を書くことの一番下の土台だと思いなおす。これからも翻訳の初稿は手書きでやろう。筆記具は新しいものが続々と出る。気に入らないものの方が多いが、時々、ピンとくるものがある。三菱 uni EMOTT には久しぶりにときめいた。『東京人』を本屋で買って、昼飯を食べながら眼を通し、帰りに文房具屋で、とりあえずブルーとレッドを買った。(ゆ)

茶匠と探偵
アリエット・ド・ボダール
竹書房
2019-11-28