村井さんの新著はジャズと関係が深い作家についての文章、ジャズ関連書の短かい書評、ジャズについての本についての解説を集めたもの。基本的に他に書いたものを集めているが、4分の1ほどは書下しだし、この本の企画が決まってから書いたものもあるそうだ。

 その本のローンチ・イベントはこの本の中心をなす第一部、作家とジャズの関連を探った文章の中からスコット・フィッツジェラルドとジャック・ケルアックを選び、それぞれとジャズのつながりを映像と音で確認するものだった。作品は当時ベストセラーとなり、作家も時代の寵児となるが、そのために比較的若くして死んだことと、時代を超えて読みつがれ、後世への影響も大きいことは共通する。

 前半のフィッツジェラルドは「ジャズ・エイジ」のフレーズを広めた張本人であり、また20世紀前半アメリカを代表する小説家でもある。ここでの眼目は「ジャズ」が今のわれわれにとってこの言葉が意味するものよりも遙かに広い意味をフィッツジェラルドの時代には持っていた、ということ。それはまずセックスの表現から始まり、セックスの比喩としての踊りの言葉になり、それからその踊りのための音楽をさすようになった。「ジャズ」とは音楽のジャンルないしスタイルだけではなく、『グレイト・ギャツビー』に描かれた派手で野放図なパーティーを描写する言葉だった。

 ということで1974年の映画『グレイト・ギャツビー』から、ギャツビーが開くパーティーのシーンを見る。この映画の音楽監督はシナトラ最盛期の編曲者でもあり、音楽の時代考証はきっちりやっている由。当時最も人気のあったポール・ホワイトマン楽団の音楽をもとにしているそうで、パーティーでは男女、ときには女性のカップルがこれで踊りまくっている。男性はタキシードに蝶ネクタイ、女性はそれぞれに工夫を凝らした派手な衣裳。鳥の羽根を頭につけたりしている。膝上の丈で、踊ると下着が見える服もある。楽隊は画面には出てこない。

 ポール・ホワイトマン楽団はガーシュウィンの〈ラプソディ・イン・ブルー〉を世界初演、初録音していて、それも聴く。リード楽器はクラリネット。ジャズというよりクラシックの演奏だ。作曲者の意識としても、ジャズというよりアメリカ流クラシックのつもりだったのではないかと思われてくる。

 同じ楽団はパーティーのお開きにあたって甘いワルツも演奏し、これも当時ヒットしている。これはもうどこからどう見てもジャズではない。しかし、そう思うのは現代からふり返っているわれわれの勝手な思いこみであり、フィッツジェラルドにとっては、そしてミュージシャンたちにとっては同じ範疇のものだった。そのことを認識することは、今フィッツジェラルドを読むにあたって、そしてポール・ホワイトマン楽団を聴くにあたって重要だろう。ジャズにはわれわれの「ねばならない」にしたがう義理も義務も無い。一方でそのことを誤読し、超訳することも、現代のわれわれにとって意味がないことでもない。ただし、自分が誤読し、超訳していることをきちんと踏まえていれば、ではある。

 ポール・ホワイトマン楽団に恐れをなしたのか、客の半分ほどが帰った休憩後の後半のケルアックでも映画『路上』からパーティーのシーンを見る。1948年から49年への年越しパーティーだが、服装がより今風になり、かかっている音楽がビ・バップになっている他は、やっていることは四半世紀前とまったく同じ。ビ・バップは踊れないと文句を言われたというが、皆さん、平気でばりばり踊っている。セックスの代用または前段階であることも変わらない。

 ケルアックはジャズ・エイジから大恐慌と第二次世界大戦を経たビート・ジェネレーションに属するとされるが、こうして見ると、現代に通じる文化の誕生を体現している。フィッツジェラルドは断絶の向こう側の世界に生き、その時代を描いた。文学の上から言えば、むしろ19世紀の伝統に棹さし、ジョイスやプルーストよりはヘンリー・ジェイムズにつながる。つまり基本的にフィッツジェラルドは風俗作家だ。文学的な革命よりも、コンヴェンショナルな形の中でベストを尽くそうとする。

 ケルアックの革命はジョイスやプルーストほど意識的でなかった。アメリカで初めて可能になった、無意識の革命であり、ジャズや映画やサイエンス・フィクションと同列だ。『路上』の文章はジャズだ。ケルアックは言葉でジャズを演っている。その軌跡、録音が『路上』の形になっている。だから厳密にはあれは散文ではない。韻文でもなく、その中間のどこか、あるいは散文と韻文を含む平面から垂直に離れたどこかにある。散文として翻訳されると、どこかずれていると感じるのはそのためだ。

 ケルアックがパーカーやデクスター・ゴードンや、「クールにもコマーシャルにもまだ向かっていない」ジョージ・シアリングに共感したのも、だから無理はない。サイエンス・フィクションも同じ時期にジョン・W・キャンベルによる革命が進行中だったが、そこにジャズにつながるものは見えない。ケルアックとジャズのつながりは、時間的なものよりも空間的なものにみえる。キャンベル革命の現場はマンハタンの Astounding Science Fiction 編集部だったが、それはジャズ・クラブのような現実の空間よりも、文学世界というヴァーチャル空間に存在していた。

 サン・ラのような例外はあるとはいえ、どうやらサイエンス・フィクションと親近性がある音楽はジャズよりもロックである。サイエンス・フィクションが即興性よりも組み立てる傾向が強いこともあるかもしれない。プログレとは限らない。ジェリィ・ガルシアは熱狂的なSFマニアだったし、初期のデッドはスタージョンの『人間以上』をバンドのモデルの一つとしていた。デッドの即興はジャズのような個人の噴出ではなく、集団が組み立ててゆく。決してガルシアのギターをバンドが支えているものではない。

 言い換えれば村上春樹にサイエンス・フィクションは書けない。サイエンス・フィクションのように見えても、見えるだけで、本質的にサイエンス・フィクションでは無い。もっとも村井さんの描くところの村上の文学は、村上本人のフィッツジェラルドへの傾倒とは裏腹にフォークナーにつながるように見える。ここでフォークナーを論じる準備はないが、ケルアックが無意識にやっていたことを、フォークナーはより意識的にやっていた、とも思える。

 ケルアックが本当にやりたかったのは、最後に紹介された即興演奏とタメをはる俳句を即興で放出することではなかったか。英語による俳句は英詩の伝統からははずれていて、韻文とは言えない。むろん散文でもない。『路上』は例外的に長大な俳句とみるべきかもしれない。あるいは連句か。ケルアック個人が吐き出したものよりも、ニール・キャサディや「メリールゥ」と巻いた歌仙なのではないか。その後ケルアックが『路上』に匹敵するものが書けなかったのも、連句をつけてくれる相手に恵まれなかったせいではないか。ズート・シムズやアル・コーンとの共演も連句のつもりだったのではないか。

 そうしてみると、本でとりあげられている村上春樹と和田誠の『ポートレイト・イン・ジャズ』は連句の一種と言えないか。

 ケルアックでもう一つ、『路上』の映画のスリム・ゲイラードのシーンがすごい。本人ではもちろんなく、そのそっくりさんだそうだが、恐しいほどの芸達者で、これだけできればゲイラードの物真似でなくても、オリジナルとして十分通用するではないかと思われる。こういう芸人が、何人もいるとも思えない。そして「ハナモゲラ語」の祖先でもあるゲイラードの芸は、ヒップホップの遠い祖先とも言えそうだ。このあたりと Gil Scott-Heron との関連も気になる。スコット・ヘロンは村上春樹、佐藤泰志と同年でもある。

 本の半分を占める第一部で取り上げられた人物から今回フィッツジェラルドとケルアックを選んだのは、この2人だけがアメリカ人だからだろうか。だとすれば、他の人たちについても、いーぐるでのイベントをしていただきたいものだ。Spotify のプレイリストはやはり味気ない。村井さんとこの人たちとの連句を体験したい。(ゆ)