ストリーミングの時代に「アルバム」ガイドってどうなのよ、と思いながら、バラカンさんのソフトでさりげなく深いところを突いてくる文章に誘われてついつい読んでしまい、読んでしまうと聴きたくなる。

 音楽の録音メディアとして「アルバム」、すなわちLPのサイズ、収録時間というのは、作る側にとっても聴く側にとっても、手離せない使い勝手の良さがあるものらしい。確かにLPの片面15〜25分というのは、リスニングの集中力が途切れない、ちょうどいい長さであることは、経験的にわかる。あたしだけではないこともわかっている。この長さは元来はLPの物理的サイズから決定されているので、人間の感覚の科学的測定を基にしているわけではないけれども、これもシンクロニシティの一つなのだろう。新譜がCDリリースされるようになった初期の頃は、皆さん、CDの収録時間一杯に詰めこんでいて、LPを聴くつもりで聴いていると、個々のトラックはともかく、全体としては構成が破綻しているものが多かった。今世紀に入ると別に目一杯詰めこまなくてもいいのだとわかってきて、CDに適切な構成がだんだんできてきた。

 ここに挙げられている52枚のディスク、アルバムはその点ではどれもうまくできてもいるはずだ。何枚か、すでに聴いているものからの類推でもそう思う。あるミュージシャンなりユニットなりの音楽の味見はシングルやビデオ・クリップでできても、まとまった分量を聴いて初めて全体像が垣間見える。中には冒頭の1曲だけのために買ってもいい、というアルバムもある(Salif Keita, Moffou)もあるが、掲げられた人たちはいずれもピックアップされた1枚だけではなくて、そこを入口にして、その世界に分け入り、探検してゆくに値するだけの蓄積を積んでいる。あるいは、あたしにとってのヴァン・モリソンのように、しばらく離れていて、あらためて再度入ってみようと思える人もいる。

 ここには21世紀に入ってからリリースされたものを52枚選び、それぞれに解説をつけている。たいていは、こちらもお薦めというディスクが2枚、追加でジャケットとタイトルが出ている。こちらにま短かいコメントがあるものもあり、無いものもある。

 巻末にバラカンさん生涯の愛聴盤707枚が、ミュージシャンとアルバム・タイトルがずらりと並んでいる。これはバラカンさんの趣味がよくわかる、という以上のものではなさそうだ。あたしは天邪鬼なので、ははあ、あの人がいない、この人もないな、などと思ってしまうが、良い子はそういうことはしないように。

 もっとも、本体の52枚とこの707枚を眺めると、バラカンさんは「南」の音楽がお好きなのだな、と納得する。音楽の嗜好には南北の方向性がある、とあたしは思っている。反対側は絶対聴かないわけではもちろん無いけれど、どうしてもどちらかに偏ってくる。クラシックの場合にもあてはまるはずと思うけれど、そちらはよくわからない。あるいは東西かもしれない。

 あたしは「北」なのである。同じ北米大陸でも、アメリカよりもカナダなのだ。ジョニ・ミッチェルやザ・バンドはここにもいるけれど、ニール・ヤング、マクガリグル姉妹、ブルース・コバーン、マレィ・マクラクラン、スタン・ロジャース、レニー・ギャラント、ジェイムズ・キーラガン、ラ・ボッティン・スリアント、ナタリー・マクマスターの名前は出てこない。ニール・ヤングはあの声がダメと伺ったこともある。まあ、それはわかる。

 アフリカでもサハラの北、ヨーロッパでもアイルランドからフィンランドに至る北部だ。インドだけはどちらかというと南だけど、これは地域よりもサロッドの響きが好きというだけかもしれない。

 バラカンさんの音楽の故郷はニューオーリンズであり、メンフィスであり、オースティンであり、あるいはニジェール河流域である。ロンドンとサンフランシスコもある。それはバラカンさん自身の体験で形づくられているので、世紀が変わっても、こちらは変わらない。52のアクトのうち、21世紀または20世紀末に出てきた人といえるのは7人または組で、これはむしろバラカンさんの年代の人にしては多い方かもしれない。放送の現場にいることのメリットとも言える。

 ここで思うのは、バラカンさんのバランス感覚の良さ、というのはダジャレではないよ。あるいはバラカンさんの基準の安定感、いわゆるブレない感覚だ。つまり、そのアクトが売れているかどうか、レコード会社の大小、流通の有無はまったく関係がない。正直、エイミ・ワインハウスが自殺したと聞いても、あたしなどは、あ、そう、それがどーした、ただの売れ線狙いのねーちゃんだろ、ぐらいにしか思わなかった。それはどうやらとんでもない思い違いらしい。まだ、聴いてません。すみません。しかし、バラカンさんがここまで言うなら、少なくとも一度は聴く価値はあるはずだ。

 あたしは「松平教」信者だったので、「ヒットは悪」という教えが染みついていて、売れてるだけでそっぽを向いてしまう。ケイト・ラスビーはもともと評価していなかったけど、ブレイクしてますます嫌いになった。まあ、自作を歌うようになってからは、バックの引き立てもあってそんなに悪くないけど、伝統歌を歌っていたときは自意識過剰で聴いていられなかった。嘘だと言うなら、彼女がキャリアの初めに Kathryn Roberts と作ったアルバムを聴いてごらんなさい。

 ノラ・ジョーンズもねえ、悪くはないけど、そんなに良いかあ。こういう組立てでこういう歌を歌ってる人はゴマンといるで、なんで、そんなに売れるか。と思ってしまうのは、ビンボー性でせうな。

 ここでもどちらかといえば、目立たないところで独自のことを地道にやってる人へのバラカンさんの愛情がひしひしと感じられるけれど、売れてるからって排除しない、というより、それが音楽の評価にまったく影響しないのは、あたしなどから見ると、見事としか言いようがない。

 むろん、この選択にパブリシティの意識がまったく無いわけじゃない。しかし、たとえリアノン・ギデンスがあって、 Leyla Macalla が無くても、納得はできる。

 52枚、ざっと眼を通して、まず何よりも聴きたい、と思ったのはスティーヴィー・ウィンウッドの Greatest Hits Live。なんと〈ジョン・バーリコーン〉もやってるじゃないですか。それにバックにギターのジョセ・ネトが入っているというのも大きい。この人、ポルトガル人だったんですか。あたしはてっきりブラジルと思ってました。ネトのほとんど唯一のソロ《MOUNTAINS AND THE SEA》1986 はあたしの生涯の愛聴盤の1枚なのだ。

 それから、Jerry Gonzalez Y Los Piratas Del Flamenco。ジャズとフラメンコの融合ではあたしは Jorge Pardo が一番と思ってるし《Miles Espanol》という傑作もあるけれど、これは《Pedro Bacan & Le Clan des Pinini》1997 に近いものらしい。ホルヘ・パルドの《Huellas》は半分で Jeff Ballard がタイコを叩いていて、この人はここにもある Brad Mehldau Trio のドラマーだ。

 とまれ、52枚を Tidal でチェックして、聴けないものを数枚、注文したところ。Aaron Neville のゴスペル盤とか John Cleary のは、アマゾンでも高騰していて、この本でまた上がるかもしれない。そのあたりはいずれどこかで出逢うのを待とう。

 まあ、しかし、Tidal でみると、どの人もほとんど聴けてしまうのは、ストリーミングの怖さ。こんなの全部聴いてたら、他のことは何もできない。しかし、聴きたい。ヴァン・モリソンはあたしは《Back On Top》で買うのをやめていたのだが、まあ、その後、ごろごろ出しているではないか。何、この《It's Too Late To Stop Now》の「続篇」って。ヴァン・モリソンでのバラカンさんの好みもやはり「南」だなあ。あたしは何よりも彼によりも《Veedon Fleece》なのだが、これはかれのアルバムとしては「極北」だろう。

 それにしても、バラカンさんが、どれもよく聴き込んでいるのに感心する。このコロナの時期にも日々出てくる新しいリリースも聴きながら、古いものを、いったいいつ聴いてるんだろう。

 こういう本を見ると、ようし、聴くぞう、という気になる。3月からこっち、コロナが始まってからは、翻訳の仕事に大部分の時間をとられてたけれど、Bandcamp が月に一度、すべての手数料をチャラにして、買い手が払ったものは全部ミュージシャンにというキャンペーンをやるので、結構買っていた。それで発見した人もいるし、最大の発見はイングランド伝統歌の女性シンガーが今大豊作になってることで、このあたり、生存証明として、ぼちぼち書くことにしましょう。アイルランドでは Luke Deaton & Jayne Pomplas の《My Mind Will Never Be Easy》2017 が最高。アコーディオンとフィドルの男女のデュオ。やってるのは有名曲、定番曲が多いけど、それがまた実に新鮮。録音、ミックス、マスタリングは Jack Talty で、レーベルはかれのところではないみたいだけど、いい仕事してます。

 アイルランドからは今、日本向け郵便がストップしていて、CDも送れないけれど、Bandcamp は買うとデジタルでもダウンロードしたり、聴いたりできるのはありがたい。(ゆ)