COVID-19 で緊急事態宣言が出る頃から7月まで、翻訳の仕事に集中していた。夢中になっていた、と言っていい。翻訳する作業も、その対象たる小説も、面白くてしかたがない。他の本もほとんど読まず、音楽も最低限しか聴かなかった。翻訳しながら、小説の面白さを発見していた。翻訳は精読だから、翻訳しながらそれまで見えなかったところが見えてくる経験はしていたが、これほど発見の多いことはなかった。ほとんど毎ページにはっとした気づき、膝を打つところがあった。話が進むにつれて、どんどん面白くなり、翻訳そのものが楽しくなった。断片的な時間でも、原書を開いては作業をしていた。夕方、料理をしかけて、できあがるまでの間もやったりした。数少ない外出の際も、原書とノートを持ち歩いて、30分でも時間が空くとやっていた。

 モノはマイケル・ビショップの No Enemy But Time。1982年の刊行でその年のネビュラ賞最優秀長篇賞を受賞している。ネビュラを獲ったというので読んではいたが、その頃は英語もロクに読めず、どこが面白いのかよくわからず、筋もすっかり忘れていた。昨年暮れに再読したときも、まあ普通の面白さで、この年ネビュラを争ったオールディスの Helliconia Spring の方が読み応えがあったなあ、ありゃあ凄かった、などと思っていた。

 

 翻訳にかかってから様相が変わってきた。細部にこそ神は宿りたもう。さりげない一文がぱっと輝いて、世界がぐっと深く鮮やかに照らしだされる。思いもかけないモチーフが、テーマが、アイデアが、イマージュが立ち上がってくる。話にぐんぐんと引きこまれてゆく。小説を読む愉しさ、ここにあり。つまりは、あたしの読解力では3度、少なくとも2度は、それもあまり間を置かずに読まないと面白さがわからない話なのだ、これは。あたしの読解力がその程度だ、と言われればそれはその通りだ。

 サイエンス・フィクションは娯楽として発展したために、さらっと読めて、ぱっとわかるものだ、とあたしも思っていたところがある。少なくとも一度読んで面白くないものは評価が低くなる。もっともバラードとか、ル・グィンとか、ディレーニィとか、あるいはポール・パークとか、一度読んだだけでも面白いが、その面白さにはまだ奥があると明瞭にわかるものもある。ビショップはさしづめ、奥があることが一度読んだだけではわからない類なのかもしれない。少なくともあたしにとっては。

 じゃあ、この話は何の話で、どこがどう面白いのだ、となると、またまた困る。

 何の話か。現代アメリカの若者が更新世初期の東アフリカ、人類が現生のホモ・サピエンスになろうとしているその直前の時空に行き、現生人類の直接の祖先とされるホモ・ハビリスの一団の一員となり、かれらの社会に完全に同化する、という話だ。もちろんラヴ・ロマンスもある。主人公は現代つまり20世紀末に無事もどる。話の半分は現代にもどってから、過去への旅の一部始終を主人公が回想する形。もう半分はその旅に上るまでの主人公の人生が、ポイントとなるできごとをつなげて語られる。最後にこの二つの流れが一つにまとまって大団円。

 どこが、どう面白いか。どこもかしこも面白い。文字通り。一つひとつの文章、段落、章が面白い。翻訳しながら、面白くてしかたがない。初稿ができて、これを改訂してゆく間も、また面白くて、さらに発見がある。改訂したものをもう一度点検、修正する時もまた面白い。ディックの『ユービック』だったか『パーマー・エルドリッチ』だったかの訳者あとがきで、浅倉久志さんが、再校ゲラまでいっても面白くて、これは傑作だ、という趣旨のことを書かれていたけれど、あれはこういうことかとも思う。

 こう書いて、伝わるかなあ。

 本筋とは一応関係が無いと思われるが、主人公の文学的素養が半端ではない。この主人公、アメリカ軍人とスペイン人娼婦の間に生まれ、別のアメリカ軍人の家庭で育てられる。養母はかなり本も読み、地方紙に書評を書いて家計の足しにするような人だし、中学生くらいの主人公がジョン・コリアの短篇集に読みふけっているシーンもある。とはいえ、No Enemy But Time というタイトルも主人公が引用するイェイツの詩の一節からとられているし、19世紀から20世紀の、それも英国の詩やエッセイからの引用がいたるところに出てくる。となると、この教養が主人公のキャラクターとどうもぴたりと重ならないように、あたしには思える。一般的に言って、アメリカ人は日本人より本を読むと思うが、それでもアメリカの平均的読書家はもっとアメリカの書き手を読むんじゃないか。とすると、ここにも何らかの著者の意図があるのか。

 この話はもちろん「もう一つの歴史」をもつ世界での話でもある。主人公が時間を遡る旅に出る東アフリカの国は架空の存在だ。幼ない主人公に母親が『指輪』のペーパーバックを読み聞かせるのだが、その時期には我々の世界ではまだ The Fellowship Of The Ring のペーパーバック版は出ていないはずだ。あるいは名前が出てくるアメリカ軍の基地の名前のスペルが、実在のものからわずかだが明瞭に違っている。一方で、この世界が我々の、つまり著者やあたしが生きている世界とほぼ同じものであることも、映画やテレビのタイトルや俳優、あるいはスポーツのチームや選手などの固有名詞の形で鏤められている。

 今回、認識をあらたにしたのは、全体の底に流れるユーモアだ。このユーモアをうまく訳しだせたか、まったく自信はない。それ以前に、すべてを適確に把握している自信もない。訳者としてはとにかくベストを尽くした、としか言えない。そもそも、著者は故意にユーモアのセンスを抑制しているのか、それともたくまずして出てしまっているのか、それすらはっきりしない。その両極の中間のどこか、ということもありえる。著者がまったく意図していないところが、ユーモラスになってしまっていることもある。あるいは意図してユーモラスにしているのか、意図に反しているのか、はっきりとはわからないこともある。

 たとえば「キャサドニアのオデッセイ」でキャサドニアの生きものが地球を持ってきてしまうシーン。一方でそれは恐しい悲劇であるのだが、角度を変えて見れば、あまりにばかばかしくて笑うしかない。

 本書で、主人公は更新世でサバイバルするために、アフリカの自然で単身徒手空拳で生き延びるための術を現地住民の老人から習うが、この老人、服を着るより素っ裸でいる方が性に合っているような老人は、若い頃、ミッション・スクールに通い、ポオの詩をいたく気に入って、そのほとんどを暗記している。「後退り吊り台」と訳した Backstep Scaffold。タイムマシンの先端部分、「過去」へ挿入される仕掛けだが、scaffold には建設現場などで使われる「足場」や「吊り足場」また臨時の組立て舞台の意味の他に「絞首台・断頭台」の意味がある。scaffold に行くのは死刑に処せられることと同義だ。

 言葉遊びも頻繁に出てくる。翻訳者にとっては頭痛の種で、その度に何とかしてそれが言葉遊びであることを示そうとするが、相当する面白さを日本語で現すのはまず不可能だ。たとえば大団円と訳した言葉は Coda だが、これは children of deaf adults つまり聾者である親のもとに育った(耳の聞える)子どもの略語でもある。主人公の生母は聾啞者なのだ。

 主人公のスペイン人の生母の名前「エンカルナシオン」は encarnar する人で、encarnar は俳優が演ずる、擬人化するの意味とともに神が受肉する、つまり神の子として生まれる意味もある。

 言えることはビショップには天性のユーモアのセンスがあり、本人もそれを自覚し、時に意図的に、時に無意識に、活用ないし発散している。意図的な計算の中には、あえて故意に出さずとも出てしまうことも含む。本篇全体が、タイム・トラベルものに対するパロディないしバーレスクでもある。どちらかといえば後者だろう。もっともタイム・トラベルものは本質的にサイエンス・フィクションという手法に対するパロディないしバーレスクでもある。それは「シリアス」なテーマを追及するよりも、一つの思考実験、「常識」をひっくり返すことが当然とされているサイエンス・フィクションにおいてすら当然とされている「常識」をひっくり返すための強力なツールだ。それは絶対不可能であるからこそ、これ以上無いほどサイエンス・フィクションらしいツールだ。それを使えば、サイエンス・フィクションにしかできないこと、他の形式では絶対不可能であることをやってのけられる。であれば、ビショップはここで、一度ひっくり返されたものを、さらにもう一度、角度を変えてひっくり返してみせている。それも内心、ふふふと笑いながら。

 そう、ビショップは相当に人が悪い。作家は人が悪いものだが、この人はその中でも質が悪い部類だ。浅倉久志さんが惚れこみ、熱をこめて紹介しながら、わが国で今一つ敬して遠ざけられているのは、そういうところもあるのだろう。われわれは司馬遼とか池波とか、いかにも人の良さそうな顔をしている書き手を好む。人の悪いことではビショップはピーター・S・ビーグルと双璧だ(人が悪いことと世渡りが巧いこととは別のことである)。ビショップに比べれば、シェパードなどはむしろ天真爛漫だ。

 ちなみに翻訳者は基本的に人が良い。そうでなければ翻訳なんて仕事はできない。作家と翻訳家と両方やっている人は、両方の性格があって、バランスをとっているのだろう。

 全篇にユーモアが流れているとはいえ、本作は喜劇を意図したものではない、とあたしは思う。あるいは本作では喜劇になるのをあえて抑制していると言うべきか。本作はどちらかといえばむしろ悲劇に分類したい。デウス・エクス・マキナの採用、いたるところに顔を出す「奇跡」の数々からしても、本作の「目的」はカタルシスだろう。

 一方で、ここでのデウス・エクス・マキナはデウス・エクス・マキナそのもののパロディにも見え、しかもわざわざ伏線まで張ってある。悲劇になることを寸前で回避しているようでもある。

 6月末に手書き初稿を脱稿し、7月ひと月かけてこれを Mac に打込みながら改訂し、打込んだものをさらに点検、修正して8月上旬編集部に送った。手書きはもちろん縦書きで、Mac に打ち込むのも EGword の縦組でやった。本になるのは来年初めだろう。

 原稿を納品した段階で、もう一度 Helliconia と比べてどうかと言えば、サイエンス・フィクションとしては『ヘリコニア』三部作の方が面白い。だろうと思う。『ヘリコニア』も今あらためて読みなおせば、あるいは翻訳してみれば、また全く別の相を現す可能性は小さくないにしてもだ。あれはオールディスの最高傑作、と言っていいだろうし、英語サイエンス・フィクションの最高傑作の一つでもあるとは思う。

 一方、小説としては No Enemy But Time に、今のところ軍配を上げたい。言い換えれば、この話の面白さは、サイエンス・フィクション的な、異化作用を起こすアイデアが外部にあるところよりも、人間の内部に求められるところにある。『ヘリコニア』ではヘリコニアという惑星に異化作用の鍵がある。そこに展開されるドラマを担うのは地球人そっくりではあるが、地球人とは縁が無い連中だ。地球人も出てきて絡み合うが、それはいわばサブ・プロットで、免疫を持たない細菌のため、地球人はヘリコニアの地表では数日で死んでしまう。主役はあくまでもヘリコニア人たちだ。NEBT では主人公は先史人類のひとつ、外見も感覚も我々とは異なる種族の一員になりきることで、ヒトがヒトであることの意義を感得する。異化作用の鍵は主人公の内部にある。あるいはサイエンス・フィクションよりもファンタジィと呼ぶべきかもしれない。

 シリーズではないが、いろいろな意味で NEBT と対になるのが、NEBT の翌年に書かれたノヴェラ Her Habiline Husband(このタイトルも語呂合わせだ)とそこから派生した1985年の長篇 Ancient Of Days である。こちらはより明瞭にファンタジィだ。ここでの異化作用の鍵は NEBT で主人公が一体化した先史人類のホモ・ハビリスの一員である男で、この男がどうやって現代アメリカの南部に現れたかは、納得できる形では示されない。

 もう一度言い直せば、『ヘリコニア』はそれがサイエンス・フィクションであるところに面白さの源泉があるのに対し、NEBT はそれが小説であること、主人公がどうやって過去に行くか(この時間旅行のアイデアは結構ラディカルと思うけれど)ではなく、過去に行った主人公がそこで何を、どのように、なぜするのかに面白さの源泉がある。

 まあ『ヘリコニア』の評価は三部作全体でするべきだろうし、翻訳するとなれば、また発見がいっぱいあるはずだ。どこか、やらせてくれないかなあ。

 NEBT が本になるまでにはまだいろいろとクリアしなければならないポイントがある。だいたい邦題をどうするか。『時の外に敵なし』ではねえ。いっそのこと、近頃の洋画みたいにまんまカタカナにしますか。『ノー・エネミー・バット・タイム』。いや、長すぎるなあ。(ゆ)