ああ、生のフィドルの音はこんなにも気持ちのよいものだったのだ。もちろん名手の奏でるフィドルだからこそではあるだろう。久しぶりのせいか、マイキーはフィドルの腕が上がったように聞える。冒頭、いきなりポルカで始めるが、ビートがめだたない。まるでポルカではないかのように、細かい装飾音に支えられてメロディが浮きたつ。その次はホーンパイプからジグ。その次はカロラン・チューンからリール。ギター・ソロで始まり、フィドルが加わる。曲種と楽器のこの転換がひたすら心地良い。とりわけ斬新な工夫でもない、特別なことではないよというように、実際もう特別なことではないのだろうが、風景が変わってゆくのは快感だ。もう、これがアイリッシュかどうかなんてことはどうでもよくなるが、それでもこれはアイリッシュならではの快感だ。

 前半のしめくくりにトシさんが歌う。去年あたりから、あたしが見るライヴではトシさんの歌が最低で1曲は入っている。やはり歌っていると巧くなるもので、今回はもう一段の工夫もあって、レベルが上がった。芸は Bucks of Oranmore のメロディにオリジナルの歌詞をのっけるのだが、マクラとしてその歌詞を一度講談調に演じる。コロナが流行りだす頃から京都に移って、あちらの友人の提案だそうだが、講談はトシさんのキャラ、ミュージシャンとしてのキャラにも合っている。あの風采で和服に袴をつければ講談師で通りそうだ。誰もアイリッシュ・ミュージシャンとは思うまい。それでリルティングとか、こういう既存のメロディに物語りをのせるのをやったらウケるかもしれない。バラッドというのはそもそもそうやってできている。たとえばラフカディオ・ハーンの怪談をアレンジしてみるのはどうだろう。

 高橋さんのギターはマイキーのフィドルとの呼吸の合い具合がさらに練れてきたと聞える。後半の1曲めでコード・ストロークでソロをとったのは良かった。引田香織さんたちとやっている「ブランケット」の成果だろうか。高橋さんは去年からスティール・ギターをもう80を超えたわが国の名手に習っているそうで、そのスティール・ギター風で Danny Boy をやる。確かに素直に聞けばこのメロディは綺麗なのだ。困るのはこれに余計な感傷をこめてしまうからだ。高橋さんのギター・ソロからフィドルとバゥロンが加わった演奏は、これまで聞いたこの曲の演奏でもベスト3に入る。マイキーのCDにはぜひ入れてもらいたい。

 ギター・ソロから3人のアンサンブルという転換はその前の Banks of Cloudy から Blackbird のメドレーも同じで、これも良かった。こいつもぜひCDに入れてください。まあ、この日の演目はどれもCDで残す価値はあるとは思う。

 マイキーは来年6月に次の任地ウクライナへの転任が決まったそうで、日本にいられるのはあと半年。なんとしてもその間に、CDだけは出してほしい。マイキーが去るのは残念だが、マイキーと入れかわりにコンサティーナを演られる妹さんが来日するそうで、なにせ、マイキーの妹さんだから、楽しみだ。

 20名限定で満席。こんな時によく来てくださいました、とミュージシャンたちは言うが、こんな時だからこそ、なのだ。こんな時によくも演ってくれました、なのだ。みんな、飢えているのだ。きっと。あたしは少なくとも飢えている。配信は確かに新しいメディアで、ふだんライヴに行けないような人たち、スケジュールが合わない、遠すぎる、などなどで行けない人たちにも生演奏に接するチャンスを生んだ。とはいえ、なのだ。それはそれでケガの功名として、ライヴの、それもノーPAの生音のライヴは格別なので、こういうライヴを体験できる幸運にはただひたすら感謝するしかない。

 ムリウイはビルの屋上の一部だし、周囲に高い建物は無いので、店の外に出れば街中としては空が広い。その宙天に冷たく輝く月がことさら目にしみる。思いの外に寒くなり、おまけに来てゆく服をまちがえたので、帰りの駅からのバスでは胴震いが止まらない。それでも、音楽のおかげだろう、風邪をひかずにすむ。(ゆ)