安田さんが古希と聞いて愕然とした。が、何も驚くことはないわけだ。人は誰しも年をとる。むしろ、古希を迎えても、「楽しいのは、これからですよ」と言い切るポジティヴな姿勢にならいたい。年寄りがこう言うと、ともすればそれで自らを鼓舞しようという、どこか白々しい大言壮語に響くのだが、ここでの安田さんの言い方にはまるで無理がない。ごく自然に、心底そう思っていることが伝わってくる。実にいい年のとり方をしている。年寄りはすべからくこうありたい。そう、いろいろな意味で、今は転換の時期であり、ゲームに限らず、面白いものがどんどんと出てきているし、これからも出てくる。お楽しみはこれからなのだ。と、大いに励まされる。
あたしはゲームには縁が無い。安田さんより5歳下の世代として、一通りはやっている。モノポリーは難しそうで手が出なかったが、バンカーズは友だちの家でやった。将棋、軍人将棋、五目ならべ、双六、野球盤、トランプ。花札は身近にやる人がいなかった。麻雀は大学に入ってから。しかし、どれも一通りで、のめり込むことはなかった。大学2年の時、周囲でトランプの「大貧民」が流行し、ヒマさえあれば、時には講義をさぼってもやっていたのがゲームというものに最も入れこんだ時だろう。
ということで、本書の後半、ベストゲーム101はあたしには猫に小判である。不悪。
一方、前半、安田さんの自伝は実に面白い。一番面白いところはまず金の使い方の巧さだ。たとえば45頁。ドイツの Funagain Games から大量にゲームを買った。あまりに量が多いので、あんたはいったい何者だと不審に思われる。ドイツのゲーム大会に行って、中古ゲームを山のように買う。日本へ送る送料だけで十数万。
あるいは56頁。
コロナで給付金がもらえたので、ここは時代が暗いから、パァーっと使おう。何に? ミステリーをこのところ趣味で読んでるから、論創ミステリーシリーズの残ってる100冊ほど買えば、それくらいになるんじゃないか。で、買っちゃうわけです。
1960年代70年代のアメリカSFのペーパーバック・コレクションでは日本一ではないかと思うと、安田さんご本人から伺ったこともある。
こうしたまとめ買いをすれば、中身は当然玉石混淆になる。そこから玉を拾いあげるのも楽しいが、それとは別に、ミソもクソもひっくるめた全体から見えてくるものがある。全部読めるはずもないが、読まなくても見える。ただし、それはとにかく全部を手許に置いてみなければ見えてこない。そして、そこで見えてくることが、実は玉だけを拾いあげるよりも大事なことなのだ。玉だけを見ていては見えないものの方に、一番のキモがある。ものごとの本質は玉よりも石ころの方により剥出しに現れる。あたしにこのことがわかるのは音楽の方面でたまたま同様の体験をしたからだが、それはまた別の話。
もう一つ面白いのは、あるものが流行っては引き、流行っては引く、その繰返しと、安田さんがそれに対処し、次の波を呼ぶ努力をし、そして幸運に恵まれて次々と波を乗りこなしてゆく有様だ。幸運に恵まれたことは確かだが、幸運というのは努力をしている者にしか訪れない。別の言い方をすれば、努力をしていることで初めて幸運をモノにできる。
流行に対して、わが国の出版社が一時にどっと集まり、去ったとみるとぱっと引くのも、本書ではからずも強調されていることだが、こういう「打って一丸となる」反応がいかに危ういか、わが国出版の現状にモロに現れているのではないか、と愚考する。先進国のみならずインドなども含め、出版がここ数十年、全体として売上を減らしているのはわが国だけだ。その原因はむろん単純であるはずもないけれど、何でも他人のやっているのと同じことをやらないと気がすまない性格は、少なくともその小さくない要因の一つではないか。他の何にも増して、出版という活動は多様性が大きいことにその生命がかかっているのだから。
狭い国内の波の寄せ返しにばかりとらわれるのではなく、広く世界の動きに目を配り、他人のやらないことをやること、選択肢の幅を広くとることが、次の波を呼びこむための秘訣であることは、本書に描かれた安田さんの行動に明らかだ。
今のところボードゲームの時代のように見えるが、これがずっと続くものでもあるまい。波は引いては返すとともに、満ちては退く潮つまり周期がある。一周回ってRPGがまた来るかもしれない。たいていは、もどってくる時にはまったく同じ姿ではなく、その間に現れたものと何らかの形で折衷している。コンピュータ・ゲームもますます盛んなようだし、新しいボードゲームとコンピュータの合体、たとえばARを使ったボードゲームも現れるだろう。いずれにしてもやはり好きこそものの上手なれ。好きなものにこだわるのがベストだ、と本書にはあらためて尻を叩かれる。
好きなものにこだわる、というと、何か必死になってしがみつくようなイメージを抱かれるかもしれない。それはまったく反対のイメージであることは強調しておこう。実際には、好きなものにこだわるのは最も無理のない、自然なことである。あるいは、最も無理のない、自然なことをしていたら、こだわっていたことになった、と言うべきか。そうでなければ、どこかで無理をするならば、必ずうまくゆかなくなる。ただし、無理のない、自然なことをするのは必ずしも楽なことではない、というだけのことだ。時にそれは孤立したり、逆行したりするように見えることもある。それでも好きなものの呼ぶ声に素直に忠実に従うのは、生きてゆくことの醍醐味ではないか。
もう一つ、ここには重要な教訓がある。少なくともあたしにとっては、あらためて肝に銘じるべき教訓がある。全体像を摑むのにコレクションの充実は必須だ。しかし本当にモノにするには、デターユに分け入らねばならない。すなわち、本は読んでナンボ、ゲームは遊んでナンボ、なのである。本書40頁、積んであったボードゲームの面白さにひっくり返るところ。時間がなくて遊べもしないゲームを買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に遊んでみなければ、面白いことはわからない。読めもしない本を買って積んでおくことも大事だが、やはり実際に読まねばその面白さはわからない。
折りしも、今、翻訳のファンタジーは売行不振のどん底にあるそうだ。これまた原因は単純ではないが、『ハリポタ』やGOTで我も我もとファンタジーに集まった反動という面も大きそうだ。しかし、あたしは今、ファンタジーに強く惹かれる。というよりも、読みたいと思う本がなぜかどれもファンタジーなのだ。もっとも科学は十分に発達すれば魔法と区別がつかなくなるというフリッツ・ライバーの言葉もある。SFはテクノロジーの装いを凝らしたファンタジーだ。サイエンス・フィクションが本当に面白くなるのは、科学の現在から飛躍するところだ。超光速飛行であり、時間旅行だ。どちらも科学からすれば不可能だからこそ、サイエンス・フィクションの最も強力で柔軟なツールになる。という議論はとりあえず脇に置いて、あたしはとにかく読みたい本、読んでくれとしきりに呼んでいる本を読むことに精を出そう。読んで面白ければ、報告もしよう。読まずには死ねない本は山のようにあり、日々増えつづけている。(ゆ)
コメント