土曜日が大雨で洪水注意報まで出たからどうだろうと、日曜日の散歩は川へ行くが、水量はほとんど変わっていない。都市部では家屋浸水まで出たそうだが、アスファルトとコンクリートで水の行き場がなくなったためか。この辺りでは、乾ききった田畑や山林が吸いこんでしまって、川には出てこないのだろう。


 散歩の供は Show of Hands 《Where We Are Bound》。前日のライヴのひとつ前のリリース。これも買いのがしていたもの。デュオとしての原点に回帰して録音したもの。近年のデュオとしてのツアーでのセット・リストに、最初の5枚からネットで投票を募った曲を加えた選曲。Fennario、Seven Yellow Gipsies、Banks of Newfoundland, Blackwaterside など伝統曲が多い。Seven Yellow Gipsies などは思わずカーシィ&スウォブリックを連想する。比べるものでもないが、今のフィル・ビアのフィドルはスウォブリックを超えるかとも思う。

 
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 二人だけの充実した演奏にひたっていると、かれらのアルバムを最初から全部聴きなおしたくなってくる。この二人の音楽はイングランドのルーツ系として一個の理想だ。The Bristol Slaver や Exile のような、あるいは Country Life のような曲と上記トラディショナルの曲を、まったく対等に、どちらにも偏らずに、同時代の歌として歌っている。

 伝統歌のうたい手としてはマーティン・カーシィの方が上かもしれないが、ショウ・オヴ・ハンズに並べると、どこか浮世離れした、形而上的なところを感じる。カーシィが貴族的だというのではなく、かれの場合、伝統歌の純化、歌としての独立性を強調するところにその真骨頂があるとみる。意図してそうしているというよりも、音楽家として体質から来るものでもあるだろう。

 ショウ・オヴ・ハンズの二人はいわば地べたを這いまわるようにうたう。やろうと思えば歌唱にしても演奏にしても、もっと精緻に洗練させることもできるだろうが、それをやるつもりはない。あえてぶっきらぼうに、村のエンタテイナーに徹する。そこには反骨としてのロックのスピリットもある。ヒットを飛ばしてリッチになるのはつまらないとする精神でもある。伝統歌もオリジナルも、「ミソもクソも」一緒というと語弊があるかもしれないが、いい歌、うたいたい歌は出自を問わない。とはいえオリジナルもイングランドの伝統にしっかり根を下ろしている。そしてかれらのイングランドは、ちゃんと外とつながっている。

 Exile はいつもと違って、フィル・ビアがリード・ヴォーカルをとる。スティーヴ・ナイトリィがうたうと、亡命者としての境遇を突きはなし、あえて孤高を貫こうとしているように聞える。ビアの歌唱では帰ろうにも帰れない、故郷のなくなった人間の悲哀が痛切に響いてくる。デュオとしてのライヴではこういうこともしているのだろう。(ゆ)