Washington Post Book Club のミュースレターで Amanda Gorman の詩を訳すことが白人にできるか、という議論が持ち上がっているという話。カタラン語の訳者ははずされ、オランダ語の訳者は辞任したという。翻訳という仕事の性質を理解しない行き過ぎ。あまりにアメリカ的発想。Washington Post も "weird" と言っている。中東、トルコまで含めたアジア諸国はどうなるのだ。アラビア語はいるかもしれないが、ペルシャ語や北欧の諸言語はどうだ。文芸翻訳は専門家ではだめなのだ。母語話者である必要がある。詩の翻訳となればなおさらだ。詩の翻訳が可能か、あるいはどこまでいけば翻訳として認められるかは、また別の問題。
夜、ローベルト・ヴァルザー『ヤーコプ・フォン・グンテン』読了。凄え。傑作とか名作とか、そんな枠組みは超えている。こいつは英訳でも読んでみよう。記録を見たら、なんと1991年に読んでいた。完全に忘れていた。筑摩の『ローベルト・ヴァルザーの小さな世界』でヴァルザーに最初に夢中になった時らしい。当時、他に邦訳はこれしかなかった。当然、眼のつけ所も感応するところも異なる。今の方がよりヴィヴィッドに、切実に迫ってくる。
今回まず連想したのはマンの『魔の山』だった。どちらも閉鎖空間にたまたま入りこんだ、ほとんど迷いこんだ人物に、入ったことで自らの新たな位相が現われ、その空間を通じて世界と向き合う。そこに映しだされる世界像に読者は向き合うことになるのだが、ヴァルザーの世界像は平面ではなく、読む者の内面に浸食し、やがて読者の世界をも覆いつくす。そしてその世界は徹底的におぞましく、それ故に蠱惑に満ちる。
どこかに着地しそうでしない文章。通常の価値判断のことごとく逆手をとる態度。人間らしく生きることが、この上なく非人間的な人間を生みだす人間の「原罪」を読む者はつきつけられる。冷徹に観察されて、美しい文章で描かれた、その原罪がごろんと目の前にころがされる。
マンの『魔の山』は19世紀までの、第一次世界大戦で滅ぶことになる世界、人間は自分のやることをコントロールできると信じられた世界を提示する。ヴァルザーが見ているのは、カフカの『城』が建つ世界であり、竜のグリオールが横たわる世界であり、夜空に燐光が明滅して電波受信がロシアン・ルーレットになった世界のもう一つの顔だ。この世界はつい先日読んだ山尾悠子『山の人魚と虚ろの王』の世界にもつながっており、文章の気息、着地しそうでしない叙述も共通する。一つひとつは短かい断片を重ねてゆくスタイルも同じだ。
ヴァルザーの場合、マンのような息長く、読む者を引きずるように長く話を続けることはできなかったらしい。結局3冊めのこれが最後の長篇となり、他はすべてごく短かい。ショートショートと呼ぶにはオチがない。もともとオチを期待するような話ではなく、デビュー作である『フリッツ・コッハーの作文集』にある「作文」というのが一番近いようだ。とにかく、ヴァルザーは読めるものは全部読まねばならない。
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