4月7日・水
玉川土手を山に向かって歩いていると、山の斜面が様々な緑色の斑になり、その中に淡いピンクが点在する。そこに斜めに陽があたっているのに嬉しくなる。
玉川土手を山に向かって歩いていると、山の斜面が様々な緑色の斑になり、その中に淡いピンクが点在する。そこに斜めに陽があたっているのに嬉しくなる。
散歩のお伴は Claudia Schwab のソロ・ファースト Amber Sands。やはりダーヴィッシュ支援で、これまたたいへん面白い。アイルランド、インド、その他の影響がそれぞれまだ剥出しなのもたのしい。聞きこんでゆくといろいろと発見がありそうだ。録音もいい。
Wさん@ICF から講座への反応をいただく。まことにありがたい言葉で、やった甲斐があったと胸をなでおろす。あたしのような者の体験でも、分野を限ればそれなりに人様が聞いても面白いものになるらしい。Zoom の後半に話した、あたしがいかにアイリッシュ・ミュージックに親しむようになったか、という話はブログに書いてみるのも一興かもしれない。
オーストラリアのベンチャー企業が開発した NuraLoop が面白そうだ。AV Watch の本田雅一氏の記事にあるように、録音音楽伝達末端の音質調整にデジタルが入ることで、オーディオは完全に変わるだろう。
スピーカーでも Genelec の SAM の技術は Apple や Nura と同様のアプローチだ。あちらは耳ではなく部屋の特性を測定して調整する。
音源はデジタルになったけれど、音に変換して再生する部分ははイヤフォン、ヘッドフォンも含めて、アナログによるアプローチだった。イヤフォン、ヘッドフォン、スピーカーのボディやドライバ、ケーブルの素材や形状というのはアナログだ。カスタム IEM で耳型をとってそれに合わせて作るのも典型的なアナログだ。耳型をデジタルで作る方法もあるけれど、耳型という点ではアナログだ。Nura はいわばヴァーチャル耳型をとるわけだ。耳型をとるのは遮蔽能力を高めるためだが、デジタルを徹底すれば、遮蔽能力はアクティヴ・ノイズ・キャンセリングにまかせ、その上で聞え方を直接測定するのが当然だ。この測定の技術、ANC の技術はまだ向上するだろう。何をどう測るかの方式は一つではないはずだ。さらに測定したものを再生に活かす技術も様々なものが出てきて、向上するだろう。フル・デジタル化することで、音質改善のコストが劇的に下がる。
音源はデジタルになったけれど、音に変換して再生する部分ははイヤフォン、ヘッドフォンも含めて、アナログによるアプローチだった。イヤフォン、ヘッドフォン、スピーカーのボディやドライバ、ケーブルの素材や形状というのはアナログだ。カスタム IEM で耳型をとってそれに合わせて作るのも典型的なアナログだ。耳型をデジタルで作る方法もあるけれど、耳型という点ではアナログだ。Nura はいわばヴァーチャル耳型をとるわけだ。耳型をとるのは遮蔽能力を高めるためだが、デジタルを徹底すれば、遮蔽能力はアクティヴ・ノイズ・キャンセリングにまかせ、その上で聞え方を直接測定するのが当然だ。この測定の技術、ANC の技術はまだ向上するだろう。何をどう測るかの方式は一つではないはずだ。さらに測定したものを再生に活かす技術も様々なものが出てきて、向上するだろう。フル・デジタル化することで、音質改善のコストが劇的に下がる。
ただし、耳そのものの質を向上させるわけではない。壊れた耳や壊れた脳が「聴いて」いるものを補正するわけじゃない。音楽を聴いて愉しむには、それなりの訓練がいる。後藤さんの「ジャズ耳」はその一つの表現だけど、耳は「鍛える」ことができるし、またすべきなのだ。ただ、それはオーディオ的に音質を改善することとは別のことではある。
ゼンハイザーがコンシューマー部門のアウトソーシングを探っているのも、こういう状況を見てのことかもしれない。デジタルの恩恵を受けるのはまだエンド・ユーザーのレベルで、音楽製作の現場ではアナログでなければならない場面は残る。個々のエンジニアやプロデューサーだけに合わせた音で作ってしまっては売物にならない。
NuraLoop の懸念は再生装置との接続で、M11Pro と Bluetooth でつないだ場合の音質がどうなるか。有線もあるにしても、イヤフォン側のケーブル形状が固有だから、サード・パーティー製でのリケーブルはできない。デフォルトは無線だろう。とまれ、試してみる価値はありそうだ。
「高齢化が進む地域社会の拠り所になる『街のでんきやさん』」という PhileWeb の記事。
「そんな高齢化時代を迎えたいまだからこそ、地域にとってなくてはならない存在感が一層際立つ。(中略)『ご年配のお客様の中には、話し相手として私たちが来るのを待ち望んでいる方も少なくありませんから』と顔をほころばせる。地域のお客様の心の拠り所として愛され続け、61年目の春を迎えた」
というのは結構なことだが、この地域の住民の平均年齡が若返り、新たな住民が増えることは期待できるのだろうか。それがなければ、『昔は世帯人員も5人、6人というのが当たり前でしたからね。それが今は高齢のご夫婦や単身世帯ばかりになってしまいました。購買力が落ちるのも当然です』という流れが続き、住民が死に絶えたところで、この店の商売も絶えるのか、70年目の春は迎えられるのかと他人事ながら気になってしまう。いや、埼玉の一角であるこの地域の話だけではなく、神奈川の一角である、今住んでいるこの辺りも状況は同じなのだから、他人事ではすまない。(ゆ)
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