5月2日・日曜
わたしの書く散文小品は、わたしの考えるところでは、ある長い、筋のない、リアリスティックな物語の部分部分を成している。あれやこれやの機会に作成したスケッチは、一つの長篇小説のあるいは短めの、あるいは長めの章なのだ。先へ先へと書き継いでゆくその小説は、同じ一つの小説のままで、それは大小さまざまに切り刻まれて、ページもとれてばらばらになった〈わたしの本〉と名づけてもらってもよいものだ。
「ヴァルザーについてのヴァルザー」203pp.
この感覚はよくわかる。リニアに続く物語というよりは、断片が集まってあるイメージを生むような形。見る角度によって見えるものが変わるもの。ヴァルザーの作品は全部読むのが理想だが、読めるものだけでイメージを見ることはできる。読む数が増えるほどに、読む深さが増すほどに、イメージはより精細に鮮明になる。そして、そのイメージは一定ではない。新たな作品を読むごとに、イメージは変わる。おそらく読むたびに変わる。
言葉の中にはそれを呼び覚ますことこそ喜びであるような未知の生のごときものが息づいている、そう願いつつ望みつつ、わたしは言葉の領域で実験を続けているのです。
「わたしの努力奮闘」213pp.
ヴァルザーがその全作品を通じて書こうとしていた〈わたしの本〉とは、つまりこの「未知の生のごときもの」を呼び覚ます、その奮闘の軌跡であろう。それは呼び覚まされたか。完全に目覚めていないまでも、完き姿を現してはいないまでも、その朧げな存在、影よりは濃い、実体よりは薄い存在は感じられる。ような気がする。結局それは誰がどう奮闘しようと、この世に完全に呼びだし、明瞭に描ききることはかなわない、朧げなその影を暗示する、あるいは喚起することしかできないものではあろう。そしてヴァルザーは、可能なかぎりそれに「成功」した。その文章を読む快楽、翻訳を読んでも湧きあがってくる快感を感じられるのは、「成功」と呼んでいい。そこまで到達した書き手の一人として、唯一人、佇んでいる。
そして巻末の「散歩」が凄い。この人、基本的に饒舌なのだ。もっともドイツ語で書く人間が寡黙ないし文章の節約をするわけではない。ゲーテの小説は長いし、マンの『魔の山』はほとんどおしゃべりだけでできてるし、『ヨセフとその兄弟』も饒舌の塊だ。ギュンター・グラス『ブリキの太鼓』も『ひらめ』もとにかくしゃべる。カフカの書簡。それを思えば、インド・ヨーロッパ語族は饒舌になるのか。『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』、ガルシア=マルケスを筆頭とするラテン・アメリカ文学、ポルトガルのジョゼ・サラマーゴ、バルザックにシャトーブリアンにサン・シモンにカサノヴァにプルーストにロベール・メルル。ディケンズ、ギボン、チャーチル、Anthony Powell、Francis Parkman、William T. Vollman。そしてもちろんトルストイ、ドストエフスキー、レスコフ、トロツキー、グロスマン。中国語は基本的に節約する。漢字を書くのは労力を要する。『西遊記』『紅楼夢』は節約してなおかつあれだけの量になる。日本語も節約を旨とする。俳句は究極の節約だ。日本語では饒舌は悪徳だ。日本語から見るとヴァルザーの饒舌は過剰に見える。しかし、おそらく、ドイツ語から見れば過剰ではない。あるいは過剰であることは悪いはずはなく、まず良いことなのだ。フランスのスーパーが日本に店を開いた時、売物の野菜、果物を店頭に山と積み上げてみせた。ヨーロッパではそれは普通、デフォルトで、商品が豊かであることはより新鮮で安いことも意味する。日本では「やり過ぎ」に見える。日本語ネイティヴはものが豊かであることに慣れていない。この列島は有史以来つい最近までずっと貧しかった(急に豊かになってしまうと、その豊かさをどう使っていいのかわからない)。貧しいなかでいかに豊かに生きるかに腐心してきた。言葉もそれに倣う。なるべく少ない字数でなるべく多くのことを言おうとする。しかし、量はある閾値を超えると質に転換する。そして、ある量でしか言えない、伝わらないこともある。質だけで量をすべて代用はできない。ヴァルザーは一篇ずつは短かい。しかし、千数百篇にのぼる全体としての量は少なくはないだろう。そしてその一つひとつにはすさまじい、と日本語ネイティヴには見える饒舌が詰めこまれている。
しかし、待てよ。そうすると、饒舌が詰めこまれた、しかも分量が少ない作品は文章量が多いのか。この場合、情報量は別だろう。しゃべりまくりながら、実質的には何ひとつ言わないこともできる。ヴァルザーにはそういう作品もある。ただし、ではそれが無価値かというとそうはならない。何も言わずにしゃべりまくる文章を読むことが快感になる。そして、その快感は情報が詰めこまれた文章を読む快感とは性格が異なる。
饒舌という言葉にはそのテクストによって伝えられる情報の質と量への評価も含まれる。文字数、言葉の数では過剰でも、伝えられる情報の質が低く、量が少ないものという含みがある。しかし、ヴァルザーによって明らかになるのは、言葉が充分に多ければ、中身の質と量が問題にならなくなる、ということだ。これは量から質への転換とはまた別だ。あるいはヴァルザーの特異性はここにあるのだろうか。
いや、ヴァルザーの場合にはその文章によって何が語られているか、ではなく、どう語られているか、が問題なので、語られている情報の量、実質的に伝えられることが可能な情報の量は作品の出来の良し悪しを左右しない。たぶん、そこがまず特異なのだ。そしてどう語られているかの良し悪し、つまり良く語られているか、悪く語られているかの判断基準が作品によって違う。
ここに収録されているのは選びぬかれたもので、「悪く」語られているものは無い。とはいうものの、ヴァルザーのスタイル、手法であれば、「悪く」語りようはないだろう。十分に語られているか、語られきっていないか、の違いではないか。こういう時、翻訳でしか読めないことのもどかしさを痛感する。出来の「悪い」作品を読めない。そして全体像はそれも読まねば、ほんとうのところはわかりようがない。全部読んだからといって、わかるとは限らないが、とにもかくにも全部、少なくとも出来の悪いとされる作品も読むことが前提となる。
もう一つの側面。この饒舌は筆にまかせて垂れながしたもの、書き散らしたものではない。むしろ、おそらく彫琢に彫琢を重ねた末の「饒舌」であり「過剰」だ。どうしてもこうなってしまう、あふれ出てしまうことが無いのではなく、それも計算に入れた上で文章を練りに練りあげて各々の形になっている。彫琢というと日本語では主に削ることを意味するが、ここではそうではない。これもおそらく言語の性格の違いだ。マーヴィン・ピークも『ゴーメンガスト』を書くのに、まず最後まで一通り書いておき、それから文章や言葉、表現をつけ加えていった。第三部『タイタス・アローン』は著者の死によってその原型のまま残され、前の2冊が完成形だ。
とまれヴァルザーの存在はドイツ語作家の世界にあらためて眼を開かされる。まずはシュティフターだろう。ヴァルザーも愛でるブレンターノ。そしてジャン・パウル、ムージル。『ヨセフ』にも再度挑戦だ。
少なくともこの第4巻は買ってもいいか。
Audirvana からイベントへの誘いが来るが、Mac で音楽を聴くことがほぼ無くなってしまったので、起動することはまず無いなあ。(ゆ)


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