5月18日・火曜日
Grimdark Magazine のレヴュー記事で Michael J. Sullivan に引っかかる。この人も自己出版で人気が出て、ベストセラー作家になった1人。最も成功した1人だそうだ。
最初に出したのは The Riyria Revelations で、著者のサイトの記事によると、このシリーズは6冊すべて完成してから版元を探した。が、結局見つからず、まず夫人が自分のインプリントで出し、次に自己出版した。その後 Orbit に拾われる。つまり、このシリーズは6冊で1本の話なのだ。しかも、全部原稿が完成してから出版した。これは面白い。無論 The Riyria Revelations はライバーの「ファファード&グレイマウザー」のエピゴーネンではあるが、この手法は新しい。
J. Sullivan, Michael
Orbit
2019-09-24
ライバーの場合は当初からシリーズ化を考えていたわけではなかった。書いてみて面白かったし、読者の反応も良かったから、もう1本、さらにもう1本と重ねていき、気がついたら、シリーズになっていた。当然、後からしまった、あそこはこうしておけばよかったと思っても修正はできない。書いてしまったものに合わせることになる。それに対してサリヴァンは全体が完成するまで出さなかったから、1本のものとして、より複雑で含みの多い話にできる。書いているうちに前を修正したくなったら、修正できる。設定は似ていても、構造は対照的で、できあがるものは相当に違ってくる。むしろ出発点が同じなために、違いが面白くなるかもしれない。ひょっとすると、どこまで違うものにできるか、出発点はあえて似たものにしてみたのかもしれない。
その次も面白くて、The Riyria Revelations がヒットした後、読者からのリクエストに応じて続篇を書こうとした時に、このシリーズの結末がいたく気に入っていたので、それを壊さないために前日譚を書くことにした。
こういうこともなかなかやらない。まずたいていは「その後」を書くだろう。実際『サイボーグ009』も「地下帝国ヨミ」の最後で終っていれば、と今だに思う。結局「あの後」はそれ以前の水準には戻らなかった。ついには「天使編」などというものまで出てきてしまった。まあ、あの場合には「続篇を」というよりも、「009 を殺すな」というのが読者の要求だったので、ケースとしては別としておこう。しかし、その要求に作者が屈した結果、作者も読者も、そして何よりも作品も幸せにはならなかったことも記憶しておこう。キャラクターは死ぬべき時には死ぬのだし、一度死んだら無理に復活させてはいけない。田中芳樹はちゃんと殺してそのままにした。だから『銀英伝』は名作として残っている。
となると、そこまで大切にした Revelations の結末は気になるではないか。しかもだ、この前日譚 The Riyria Chronicles はまた構成を変えた。こちらは1巻読切の形で、どれからでも読める。また、書くのも出すのも自由だ。既刊4冊で5冊めを計画中の由。
さらにその次の The Legend of the First Empire も原稿を完成してから版元を探した。これは最終的に三部作二つの形になって、最初の三部作は Del Rey から、後半の三部作は自己出版で出した。年1冊の刊行を早めることと、オーディオブックの権利を切り離し、活字版だけの権利を買うことに版元がウンと言わなかったためだ。それだけオーディオブックの権利は出版社にとってはおいしいものなのだろう。Del Rey の担当者たちとはごくうまく行っていて、かれらは活字だけでもいいと思っていたのだが、Del Rey の親会社である Penguin Random House が、オーディオブックのつかない活字だけで契約することを禁じていたのだそうだ。
Sullivan, Michael J.
Del Rey
2016-06-28
それはともかく、こういう書き方、つまり出版前に全部完成してしまうやり方をする書き手はあまりいない。というよりも、普通は薦められない特異なやり方であることは本人も自覚している。
あるいは、こういうことも今だから可能になった、ということなのだろう。自己出版がひとつのシステムとして確立し、そのためのインフラが整ってきた。流通のインフラだけでなく、様々なレベルの編集や校閲、校正などのような編集のインフラを担うフリーの専門家の層が整ってきたのだ。あるいはベータ・リーダーを集めて利用するノウハウやそこに参加するメンバーの質も全体に向上しているのだろう。質の良い専門家を個人が集めて、利用できるようになっている。実際、自己出版された小説の質も上がっていて、もはや出版社から出るものと実質的な差異はないし、人気という点ではむしろ自己出版の方に軍配が上がるようになってさえいる。従来は小説を出版できるシステムとしては会社組織としての出版社しか存在しなかった。
ちなみに今年の3月11日の著者の書き込み Line Editing は大変に面白い。英語の小説編集の様々な過程について簡単に記してから、line editing とはどういうものかを、自分たちが実際にやったテキストを例にして段階を追って具体的に説明している。当初の文章、それを一度 copy edit に通した結果、そのどこをなぜさらに line edit するか。その結果。
元来は英語で小説を書こうとしている人たちへ向けた記事だが、英語を読む際の勘所を簡潔に説明してくれてもいる。何より、実際に良くなってゆく様を目の当たりにするのはスリリングだ。ベストセラーになるには、こうした見えないところの細かい努力を重ねてもいる。そうした努力を重ねることは必要条件で、十分条件ではないわけだが、エンタテインメントだからこそ、こうした緻密な仕上げの手を抜いてはいけない。
この辺も昔とは様変わりしている。シルヴァーバーグが「小説工場」と言われるほど書きまくっていた時に、こんな緻密な作業は考えもしなかったろう。雑誌の中短篇でデビューして長篇へと移っていったプロセスと、いきなり大長編でデビューする手法との違いはあるにしても、それだけではない環境の変化があるはずだ。
出版前に原稿全体が完成していた例は昔からもちろんあるわけで、『指輪』もそうだし、ドナルドソンの『コヴナント』も三部作を一挙に出した。ウォルター・ジョン・ウィリアムスも長篇2冊の同時刊行でデビューしている。しかし、 The Riyria Revelations は三部作どころではない、6冊合計100万語、1万枚、『グイン・サーガ』25冊分の分量だ。しかも、一度ならず、二度までもやっている。二度めの The Legend of the First Empire も6冊合計2,600頁超で、やはり百万語超。さらに二度めは前半3冊はメジャーから、後半3冊は自己出版という、普通とは逆の手順を踏んでいる。そうなるとこれまたどういう話なのか、気になってくる。
全体としては1本の話だが、構造としてはより小さな単位のまとまりに分けるのは、長い話をダレずに語る手法の一つだ。ブランドン・サンダースンも主著の『ストームライト・アーカイヴズ』を5巻ずつ二つのグループにすることを公表していた。つまり各巻ごとにヤマがあり、その上に大きなヤマが二つあって、後のヤマは全体のヤマでもある。The Riyria Revelations の場合は二部作が三つという構成らしい。
もう一つ、 The Legend of the First Empire は The Riyria Revelations と同じ世界の三千年前の話。後者では神話・伝説として残されている時代の話だ。後者を読んでいれば、ああ、これはあそこに出てきた、とわかるわけだ。だけでなく、歴史は勝者によって書かれるので、前者に書かれているのは、後者で伝わっていたものの「真相」になる、と著者は言う。こういう対照の仕方を意識的にやっているのも、あまり例がない。たとえば、どちらにもこの世界の地図が付いているが、同じ地形で地名はまったく異なる。あたりまえといえばあたりまえ、単純なことではあるが、目の前に並べられてみると興奮してくる。
サリヴァンは次の三部作がもうすぐ出るけれど、それは Riyria と First Empire をつなぐものになるそうだから、まずはこの三つのシリーズというか、2本と4冊を読んでみよう。
The Riyria Revelations は最初の2冊だけ邦訳が出ている。2012年にたて続けに出してそれっきりだから、後続の巻が出ることはおそらく無いのだろう。しかし、これは読者としてはまことに困る事態だ。英語も読める読者はともかく、翻訳に頼る読者ももちろんいる。あたしだって英語以外はお手上げだ。全体で1本の話の最初の3分の1だけ出しておいて、後は知らないよ、というのは、『指輪』の第一部『旅の仲間』だけ出して後は知らない、というのに等しい。
事情はいろいろあるのだろう。端的に言えば売れなかった、ということだろう。しかし、こういうことが続けば、読者の方も警戒する。どうせまた中断されるだろう、と長いものには手を出さなくなる。ますます売れない。
事情はいろいろあるのだろう。端的に言えば売れなかった、ということだろう。しかし、こういうことが続けば、読者の方も警戒する。どうせまた中断されるだろう、と長いものには手を出さなくなる。ますます売れない。
しかし、長い話にはそこでしか味わえない愉悦がある。長い時間をかけて、複雑なプロットを読みほぐし、多数のキャラクターを読みわけて、その行動や思考や感情を追いかけ、そうしてその世界にどっぷりと浸ることは、他のどんなメディアでも、マンガでも映画でもテレビ・ドラマでもゲームでも味わえない快楽だ。「小説は長ければいいってもんじゃない」と言う人間は、長い小説の味をまだ知らない。長い小説は長いというそれだけで、まず価値がある。
長い小説の翻訳を中断するのはその愉悦を味わうチャンスを奪うわけで、中断するかどうかの判断は慎重にされていると期待する。
出版社が出してくれないなら自分で出す、というのは今やごく普通の選択肢だが、翻訳の場合、自己出版は難しい。ちょっと考えただけでも、自分で書いたものを出すのとは別のレベルのシステムが必要になりそうだ。そういうシステムを造るのと英語を読めるようになるのと、どちらがハードルが高いだろうか。(ゆ)
コメント