6月1日・火
 
 バトラーをやっていると文章に興奮してしまって、仕事が進まなくなる。原文を読んで翻訳しようとする前に、いろいろと考えが浮かんできてしまう。登場人物たちの言動や、視点人物の言葉に反応してしまう。話がちょうど感情的に辛い部分にさしかかってきているせいもあるか。

 皆さん、こういうのはどうして処理いるのだろう。と今さらのように思う。どんな話の、どんな展開でも、水のように冷静に、一定の距離を保ち、「客観的」に原文を読んで、坦々と翻訳を進める、なんてことができているのだろうか。

 作品に対して感情的に反応してしまい、仕事が進まなくなる体験はしたことがない。と思う。これまでやったものの中に、そういうものは無かった。ホーガンの『仮想空間計画』のアイルランドでのシーンは、おー、きたきたといいながら、やるのが愉しくてしかたがなかった。翻訳しながら作品に感情的に反応したと言えるかもしれないが、質がどうも違う。アリエットの作品も感情の量が豊冨だし、一人称やそれに近い視点で書かれたものも多いのだが、翻訳をやりながら巻きこまれてしまい、高ぶって筆が進まない、いやキーボードを叩けないことはなかった。やはりこれはバトラーの書き方だろうか。

 もっとも同じバトラーでも、いやこの二部作の前作 Sower をやっている時も、こうなったことは無かった。『種播く人』は典型的なV字型の話で、冒頭から状況はどんどん悪くなってゆき、どん底になったところで方向転換、後はラストまでムードは右肩上がりだ。将来への希望をもって終る。視点もヒロインで語り手の一人称、というよりほぼ本人の日記からの抜粋だけでできている。シンプルな構成のシンプルな話で、その分パワフルでもある一方で、読む方の反応もシンプルでいい。

 この Talents の方はぐんと複雑だ。複数の視点、それも対極の立場のものが導入され、状況は割り切れず、感情の動きは振幅が大きく、錯綜もする。『種播く人』では目標に向かって一直線に進んでゆくヒロインの姿は凛々しく、雄々しく、さわやかだったが、ここでは迷い、揺れ、状況に翻弄される。

 ただ、仕事が進まなくなるのは、登場人物たちのというよりも作品そのものが孕んでいる感情的なものの大きさにからめとられてもいるようで、それはまた作品の複雑さからも生まれているようでもある。こういうエモーショナルなパワーが作品の根本的性格とすると、それにからめとられていて、はたしてそのパワーを訳文にも籠めることができるのか。そこからはなるべく心身を離し、冷静に訳文を決定してこそ、それが可能なのではないか。

 いや、その前に、仕事が進まないのは困るのだ。

 話の中核、ヒロインたちが徹底的にいためつけられる部分にさしかかって、気分としてはほとんど格闘している。いや、格闘というのはまだ対等の関係が含まれる。むしろ押し流されそうになって、もがいている。急流にさからって遡ろうとしている。バトラーはいろいろな意味でパワフルな人だったようだが、このパワーはいったいどこから来るのだろう。同時代と後続の人たちに影響を与え、というよりも鼓舞しつづけているのも、このパワーだろうか。(ゆ)