6月21日・月
Penguin Books のサイトのデビュー長篇小説をどう書くかの作家たちのアドヴァイス集に、
“Copy the whole thing out again in long-hand.”- Paul Theroux, author of Under the Wave at Waimea
があるのに嬉しくなる。たいていは逆だ。もっとも英語の場合、タイプないしキーボードと画面に向かって打つのがデフォルトだ。初稿を手書きで書く人は多くはない。しかし、別に小説や翻訳ではなくても、レコード評や書評やエッセイでも、試してみる価値はあるかもしれない。今や、あたしらだって、画面に向かってキーボードを打っている。
これは一度書きあげてからブラッシュアップするための手法ではある。とにかく最後まで書きあげろ、とか、毎日書け、とかももちろんあるが、セルーのこれは初めて見た。
言わずもがなではあるが、手書きは自分の肉体を使って一字一字書くことで文章に命を吹きこむためにやる、さらにこの場合には文章が生きているか確認するためにやるので、人に見せるためのものではない。作家の肉筆原稿を読んで喜ぶのは研究者ぐらいだ。
むろん小説を書こうと思ったら、書く前にまず読まねばならない。このペンギンのサイトでも、とにかく「読め」とある。"You can only vomit what you eat." 創作とは、どんな形であれ、食べたものを口から吐くか、尻から出すか、どちらかで、どちらにしても、食べたものしか出てこない。出すには食べねばならない。
吸収するのは活字からとは限らず、静止画でも動画でも音楽でも、あるいは味覚、嗅覚、触覚からでもいい。それらは蓄積されて材料になる。とはいうものの、最終的な産物が小説であるならば、活字を一番多く吸収することは必要なのだ。それこそ浴びるように、どっぷりと首まで、溺れそうになるくらいに小説に漬かることは必要なのだ。絵を描こうとすれば絵を見る、動画を造るのなら動画を見る、音楽を作ろうとすれば音楽を聴く、旨い料理を作ろうと思えば旨い料理を食べることが必要なのだ。証明はできないが、経験的にわかる。
もう一つ。ドリトル先生が鸚鵡のポリネシアに語る言葉を敷衍した James Wood の How Fiction Works (2008) からの引用。
Literature differs from life in that life is amorphously full of detail, and rarely directs us toward it, whereas literature teaches us to notice. Literature makes us better noticers of life.
ここで life は人生、暮し、日常をさすだろう。ファンタスティカは life から取り出したものを life の中ではありえない姿に変形して示す。変形することで人間以外の存在、人間がその一部でしかない環境まで視野を広げ、life の本質をより効果的に、より明確に示す。リアリズムよりもさらに良く life を気づかせる。それも、当人にはそうとは気づかせないままに。娯楽に逃避しているつもりで、実は現実が意識の奥に刻みこまれている。そこがまたファンタスティカの面白いところだ。(ゆ)
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