1001日・金

 JOM Toner Quinn によるオ・リアダ没後50周年記念コンサートのレヴューはいろいろと興味深い。冒頭でクィンが批判しているオ・リアダの息子のパダーの愚痴は何を言いたいのかわからず、相手にする価値もないんじゃないかと思われるほどだが、50周年記念コンサートのレポートを読むと、クィンが嘆いている、オ・リアダから半世紀、何の進歩も無いじゃないかという愚痴と方向は同じようにも思える。確かに、没後50周年記念で、なんでキョールトリ・クーラン再編を聞かされにゃならんのだ、というのはわかる。やるのはかまわないにしても、それと並んで、それを発展継承した音楽こそが演奏されるべきだろう。それがこの場合、Crash Ensemble だけだった。というわけだ。
 

 もうひとつ、あたしとして興味深いのは、キョールトリ・クーランの再編にパディ・モローニが加わっていないことだ。ショーン・キーンとマイケル・タブリディ、パダー・マーシアは健在ぶりを示し、キーンはソロも披露してそれは堂々たるものだったそうだ。あるいはパダー・オ・リアダとパディが仲が悪い、というだけのことかもしれない。

 パディにしてみれば、オ・リアダの正当な後継者は自分だ、オ・リアダがめざしたことを実現したのは自分だ、と自負しているのではないか。パダーから見れば、オ・リアダの遺産を乗取って食いつぶしたことになるのだろう。あるいはパダーが嘆く「アイリッシュ・ミュージックの現状」はチーフテンズのやったことが主な対象にあるとも見える。

 どんなものにもプラスマイナスの両面があるのだから、両者の言い分はそれぞれに当っている。とはいえ、同じようなイベントが10周年、20周年、30周年、40周年にも行われた、というクィンの指摘も的を射ている。同じことをくり返すよりは、半歩でも先へ進む方が建設的だ。もっとも、パディも、半歩以上先に進もうとはついにしなかった。戦術としては正しかったかもしれないが、戦略としては自分で自分の首を締めていった。

 伝統音楽にしても、繁栄の裏には常に危機が進行している。わが世の春を謳歌するだけなら、早晩、ひっくり返される。繁栄しているときにこそ、地道な蓄積と、大胆な踏みはずしを忘れるべきでない。ということをオ・リアダは言っていたではないか、というのがクィンの言いたいことと察する。


 Tor.com の記事を読んで Roger Zelazny, A Night in the Lonesome October を注文。調べると、なんと竹書房から翻訳が2017年に出ていた。さすが。

虚ろなる十月の夜に (竹書房文庫)
ロジャー・ゼラズニィ
竹書房
2017-12-01


##1001日のグレイトフル・デッド

 1966年から1994年まで、8本のショウをしている。公式リリースは1本。

1. 1966 Commons, San Francisco State College, San Francisco, CA

 前日からトリップ・フェスティヴァルが続く。

2. 1967 Greek Theatre, University of California, Berkeley, CA

 Charles Lloyd, Bola Sete との「ポプリ」と題されたイベント。ポスターの写真がボヤけていてわかりづらいが、午後1時開演のようだ。

 ロイドは今や大長老だが、当時は若手ジャズ・サックス奏者として注目を浴びていた。珍しくロックとジャズの双方のリスナーに訴える力をもち、デッドとは何度もヴェニューを共にしている。ビーチ・ボーイズのバックに入ったり、アシッド・テストにも参加したりしている。

 セテ(1923-87)はブラジル出身のジャズ・ギタリスト。1962年、サンフランシスコのシェラトン・ホテルで演奏しているところをディジー・ガレスピーに見出されてブレイクする。

 こういう人たちと一緒にやらせると面白い、と当時のデッドはみなされていたわけだ。

 Greek Theatre という名のヴェニューはロサンゼルスのも有名だが、こちらは UCBA の付属施設。収容人員8,500のアンフィシアターで、1903年にオープン。卒業式などの大学関連のイベント、演劇、コンサートなどに使われている。国指定の史跡。

 デッドがここで演奏したのはこの日が初めてで、セット・リストは無し。ポスターの写真では、レシュとピグペンが前面に立ち、その後ろに少し離れて左からクロイツマン、その斜め後ろにガルシア、さらに後ろにウィアと並ぶ。翌年10月に2度めに出て、その次は飛んで1981年秋。以後1988年を除いて1989年まで毎年ここで演っている。計26回演奏。

3. 1969 Cafe Au Go Go, New York, NY

 3日連続最終日。この日も Early Late の2回、ショウをした、と DeabBase XI は言う。

4. 1976 Market Square Arena, Indianapolis, IN

 会場はバスケットで17,000人収容の屋内多目的アリーナで、1974年にオープン、1999年に閉鎖、2001年に取り壊された。デッドはここでこの日初めて演奏し、1979年、1981年の2回、演奏している。

 屋内アリーナとしては例外的に音響が良いそうな。この時はまだできて2年しか経っておらず、ロック・バンド(とされていた)のコンサートとしては時期が早く、警備もゆるかった由。

5. 1977 Paramount Theatre, Portland, OR

 2本連続の1本目。8.50ドル、夜7時半開演。アンコール無し。

 会場は1930年オープンの定員2,800弱のホールで、ポートランドの各オーケストラの本拠。当初は映画館。

 デッドはここで197207月、197606月とこの10月に各々2日連続のショウを行った。 

6. 1988 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続の中日。

7. 1989 Shoreline Amphitheatre, Mountain View, CA

 3日連続最終日。

8. 1994 Boston Garden, Boston, MA

 6本連続の4本目。前半9曲目、最後から2番目の〈So Many Roads〉が2013年の《30 Days Of Dead》でリリースされた後、《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。

 これがすばらしいショウで、ガルシアの調子さえ良ければ、こんなとんでもない音楽を生みだしていたのだ、と思い知らされる。思わずタラレバしてしまうが、こういう音楽を遺したことだけでも、デッドは讃えられるべし、とも思う。

 DeadBase XI Peter Lavezzoli は、1994年秋以降のデッドの全てのショウを見た者として、これがガルシアとデッド最後の1年にあってダントツでベストのショウと断言する。

 《30 Trips Around The Sun》を聴くかぎり、1990年春、1977年や1972年のピーク時のベストのショウに比べても遜色ない。見方によっては、それらをすら凌ごう。

 この時、翌年の同じ会場の6本連続がガルシアの死によってキャンセルになるなどとは、誰一人知る由もない。デッド健在を心底確信したデッドヘッドも多かったはずだ。これが最初のショウという人ももちろんいた。(ゆ)