10月12日・火
久しぶりに中野に徃き、時間があったのでタコシェに入る。panpanya の単行本が揃っているのに嬉しくなる。そうだ、この人がいたのだ。『楽園』編集長の飯田からデビュー作『蟹に誘われて』を教えられて、面白かった。その頃、東急・田園都市線沿線に住んでいたから、妙にねじれたリアリティもあった。久しぶりの再会で、最新刊『おむすびの転がる町』を買う。それと気になる絵のついたハードカヴァーを平積みしてある。イラスト原画の展示もしている。ついつい買ってしまう。宮田珠巳『アーサー・マンデヴィルの不合理な冒険』。絵は網代幸介。版元、大福書林は聞き慣れない。後でサイトを見ると、なるほど変わった本を出している。ここもマイクロ版元で、買切りでやっているのか、カヴァーはない。
##本日のグレイトフル・デッド
10月12日は1968年から1989年まで6本のショウをしている。公式リリースは2本、うち完全版1本。
1. 1968 Avalon Ballroom, San Francisco, CA
3本連続の中日。前半3曲目の〈St. Stephen〉が2015年の《30 Days Of Dead》でリリースされた。
この時期、ウィアとピグペンをメンバーから外す話がレシュから出ていて、このアヴァロン・ボールルームの3日間にピグペンは不在。しかしこのショウは初期デッドのベストの1本と言われる。
2. 1977 Manor Downs, Austin, TX
予約5ドル、当日6ドル。午後5時開場、午後7時開演。雨天決行。このチケットは珍しく開場時間が書いてある。
ジョニー・ウィンターが前座で、デッドのステージにも殘り、ガルシアとソロをやりあった由。
3. 1981 Olympia Halle, Munich, West Germany
1年に2度めのヨーロッパ・ツアー。25マルク。良いショウだった由。
4. 1983 Madison Square Garden, New York , NY
前日に続く2日目。さらに良かったそうだ。
5. 1984 Augusta Civic Center, Augusta, ME
このヴェニュー2日連続の2日目。どちらも良いショウだったそうだが、こちらの方が《30 Trips Around The Sun》の1本としてリリースされた。12.50ドル。午後8時開演。
この年、デッドは64本のコンサートを行い、125曲を演奏した。主なツアーは3つ。春の中西部、東部、南部(14日間)。夏の西部、中西部、カナダ、西部(22日間)。秋の北東部(17日間)。新曲はいずれもミドランドの〈Don't Need Love〉と〈Tons Of Steel〉。またミドランドがトラフィックの〈Dear Mr Fantasy〉をとりあげ、以後、ショウのハイライトのひとつになる。
ビジネス面では2つ、動きがあった。1つは Rex Foundation の設立。もう1つは Taper's Section の設置。
前者はダニィ・リフキンの発案による自前のチャリティ財団で、バンド・メンバー、東西のプロモーターのビル・グレアムとジョン・シェール、著名なデッドヘッドでプロ・バスケットボールのスター、ビル・ウォルトンなどが評議員となり、コンサートの収益から5,000から10,000ドルを様々な団体、個人に寄付する。間に入るものを省くことで、相手に確実にカネが渡るようにした。
後者は10月27日、Berkeley Community Theatre でのショウから導入された。音響コントロール、サウンドボード席の直後にテーパー用の席を設けた。サウンドボードの前にテーパーたちのマイクが林立してエンジニアの視界を遮ることを防ぐことと、他の客たちとの軋轢を防ぐため。
どちらもデッドが創始したイノベーションではある。こうした決定は全社会議と呼ばれる、バンド・メンバー、クルー、スタッフが集まる会議で決定される。議長はふつうレシュが勤めた。
人事面でもひとつ動きがあった。ロック・スカリーが過度の飲酒でクビになった。かれはメディア担当も兼ねていたので、その不在は人気が高まっていたデッドのメディアとの関係に悪影響をおよぼすことがスタッフから指摘され、ガルシアの推薦で Dennis McNally が専任として加わった。マクナリーはここから始まるパブリシストとしての体験をも大いに組み込んで後に初の信頼できるバンドの伝記を書くことになる。
この年、レーガンが大統領に再選されたことは、デッドとその世界にとっては悪いニュースだった。レーガンはあらゆる点でデッドの対極にいたからだ。しかしそのことがデッドの人気を高めるひとつの要因にもなった。ショウの中は外部世界からの避難所としての役割を増した。デッドとは無関係にレーガンの標榜するアメリカに反発する人は多く、その一部がデッドを「発見」してゆく。デッド世界への圧力はそれまでより高まった。バンドへのプレッシャーは内外から大きくなる。その大部分はガルシアにかかることになる。それに耐えるため、ドラッグの使用量が増える。しかし、音楽面では同じプレッシャーは演奏をドライブし、エネルギーを与え、この年秋のツアーは70年代後半以来のベストとも言われた。
この会場では1979年秋とこの84年秋の合計3回演奏している。公式リリースは今回が初めて。ここは多目的ホールを中心とした複合施設で、メイン・ホールの収容人数は6,777。地元の大学、高校のスポーツをはじめとする競技会が主な使用目的。コンサートにもよく使われているようで、1977年春、プレスリーも公演している。同じ年の夏、ここでの再演が予定されていた前日に死去が発表された。1996年秋、シカゴ・ブルズのスター、デニス・ロドマンがパール・ジャムのコンサートに来てクライマックスでステージにあがり、リード・シンガーのエディー・ヴェダーをおんぶしてステージを歩きまわった。ヴェダーはロドマンの背中でうたい続けた。
メイン州オーガスタは州の南部、大西洋に近い人口2万弱の街。17世紀前半からヨーロッパ人が入植した。北緯42度線より緯度にして2度北。ボストンの北北東250キロ、インターステイト95号線沿いにある。こういうあまり人がいなさそうなところでコンサートがよく行われるのも面白い。
実際、すばらしい出来で、まず選曲が異常。こういう通常のパターンからは外れた選曲の時は、ショウの出来も良いことが多い、とニコラス・メリウェザーは言う。演奏をやめたくない、という気持ちがひしひしと伝わってくる。デッドはとにかく演奏したかったのだ。とりわけこうしてノった時、「オンになった時」はそうだ。前半ラストの〈The Music Never Stopped〉も凄いが、後半2・3曲目〈Lost Sailor> Saint Of Circumstance〉の各々後半のジャムの高揚感には持っていかれる。
〈Space〉はまずガルシアが入り、2つ3つの音を叩くようにしてドラムス、打楽器とからむ。だんだん他のメンバーが入ってきてのジャムがいい。やや軽みのある、蕪村のようなジャム。そして〈Playing In The Band〉 はやはりなかなか本番へ移らない。そしてアカペラ・コーラスの後、また延々とジャムが続き、いつの間にか〈Uncle John's Band〉 に移っている。切れ目なく、〈Morning Dew〉へと突入する。ガルシアのヴォーカルがいつになく良い。声がよく伸びる。この日はこれまでになくいきむが、それも様になっている。ギターも絶好調。この時期、サウンド・エンジニアの Dan Healy はヴォーカルにリヴァーヴをよくかける。この日はウィアが声を嗄らしていて、それをカヴァーする意味もあるのか、少なくとも3分の1は何らかの形でかけている。それが最も効果的なのもこの〈Dew〉。
6. 1989 Meadowlands Arena, East Rutherford , NJ
午後7時半開演。これも良いショウだったそうだ。この頃になるとチケットの贋物問題が大きくなり、印刷にも様々な工夫がされるようになる。
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